裏山に棲みついた害獣を駆除して欲しい。と、領主様に嘆願書を送ること三月目、秋の始まりに漸く派遣されてきたのは、一人の騎士とその従者だった。
ティアナは彼らを見たとき、本当に大丈夫だろうかとひどく心配になった。というのも、騎士は小柄な若者で、まだ少年と呼んでもよい年頃のように見えたからだ。鎖帷子を着て長剣を佩いているのも、たとえば少数の盗賊退治ならともかく、獣を狩るには心もとなく思えてならない。よろしくと差し出された手を握り返すと、その手のひらは予想以上に華奢だった。
従者の方は、騎士よりも長身でがっしりとしているが、やはりまだ若く、二十歳には届いていないに違いなかった。彼は旅装束の上に丈夫そうな革の上衣を着ていて、身長よりやや長いくらいの槍を担いでいる。やけに整った顔立ちは、何故か少し不機嫌そうだった。
「それで、獣が出るのはどの山だって?」騎士の方が訊ねてきた。
ティアナは、はっとして、今の不信感が伝わりはしなかっただろうかと思いながら応えた。「ええ、騎士様。あなた方は北の砦からいらっしゃったのでしたね、でしたら道中ずっと見えていたかと思います。この村の、あなた方が入って来たのとはちょうど反対、南の山です。入り口と逆にあるので裏山と呼んでいるのですが……」
「山ばかりの場所で裏山と言われてもなあ」騎士がぼやいた。うんざりとした目元には、やはり少年の名残があった。というよりも、性が別れる前の子供のような。見る人によっては少女と勘違いするかも知れない。
「すみません。この辺りは平地が少なくて……」
ティアナは答えた。地形のことで自分が謝る必要はないのだろうが、折角、領主様が送ってくださった人々の機嫌を損ねて、このまま帰られてしまうようなことがあったら一大事だ。
「そうみたいだね」と口を開いたのは従者の少年だった。無愛想だがよく通る声だ。「山の中まで案内をしてくれるんだって?」
「はい」ティアナは頷いた。「そうするように言われています。猟師の娘なので、山のことは、他より幾らかはわかります」
「父君は?」騎士が口を開いた。
「三月前、獣にやられました」と、ティアナが応えると、騎士は明らかに気まずそうな顔をして慌てて謝ってきた。ティアナは「構いません」と答えてから、二人を連れて歩き出した。「父の仇を取りたいのです。本当なら、一人で山に入れればいいのですが」
「危険だ」と騎士が言った。「女の子が一人で……」
「わかっています。ですから、お二方をお待ちしていました。長老に頼み込んで、案内だけは許してもらいました――実際、私より山に詳しい男はいないんですけどね」
「頼もしいな」従者が言った。
「ランツェ!」騎士が彼を睨んだ。焚き付けて何かあったらどうする、と言いたいのだろうとティアナは思った。だとしても、何を言われても、ティアナは好機があれば自分で獣の喉元に短剣を突き刺してやりたかった。父のために。或いは自分のために。そんなことはやめろと長老達は泣きながら頼んできたが。だとしても、父や他の森に詳しい男達がみな死んでしまうか兵役に取られてしまっている今、他に行きたがる者なんていないのだ。「猛獣なんて少ないし、騎士様が一緒に来てくれるんだから平気だよ」と無理やり笑って言った時のことを思い出す。結局、形ばかりの反対を突っぱねると、後はみながティアナを頼りにした。特に年嵩の、ティアナと似たような年齢の子供がいる女達が。
村の中に入ると、老いも若いも村人たちが集まって来て、「あらあ、お若い騎士様だねえ」とか「本物の剣だ!」とか「勇ましいねえ」とか「格好いいお兄さんこっち向いてー」とか「その鎧、叩いてみていい?」とか、それぞれが好き勝手に言い出した。
騎士は完全に慌てた様子で、「ええと」だの「私が来たからには大丈夫だ」だのと言っていたが、ついには「ランツェ、どうにかしろ!」だのと騒ぎ出し、従者は呆れた様子で「はいはい順番に順番に」と適当な様子で村人たちを並ばせ始め、なんだかよくわからない握手会が開催された後、わざわざ来てくれた立派な騎士様を歓迎しようと、二人を強制的に村長の家まで運んで行った。
裕福ではない村の宴は、騎士様にとっては大したものではなかったかも知れない。しかし、絞めたばかりの鶏や、焼きたての麺包、祭のために取っておいた葡萄酒や麦酒を前に「これはすごい」と彼が呟いた時、準備を取り仕切った村長の奥方がこっそり拳を握ってみせたのを、ティアナは見た。
「これだけのご馳走を見るのは久しぶりだ」
騎士も従者も村の少女達に囲まれて、あれやこれやと質問攻めに合っている。村一番の美人を自負するリーゼロッテに至っては、何やら妖艶な流し目で、「騎士様、ご領地はどちらですか」と、もう早速、玉の輿を狙っているようで恐ろしい。
そして、案の定、夜遅くまでの酒盛りになった。ティアナは下戸で飲めないが、温かい牛乳の杯を貰った。瞼に眠気が溜まってきたので、そっと従者に近づいて囁いた。「私はそろそろ失礼します。明日の朝に村の広場でお待ちしています」
「送っていくよ」
「でも」
従者は薄く笑った。切れ長の目が灯火を反射した。「きみが帰り道でその害獣とやらに襲われたら、明日、誰が俺たちを案内してくれるんだ?」
「……まさか、口説いてますか? 私、ちゃんと恋人いますよ。兵隊に出ていますが」
「まさか」と彼は言ったが少し残念そうだった。それから彼は騎士に声を掛けて、ティアナと共に屋外へ抜け出した。宴の主役の一人であるはずなのに、殆ど呼び止められることもなかった。「本当の主役は王子様だ」と彼は言った。「貴族と平民じゃ、なあ。俺と結婚しても領地つかないし」
「放っておいて大丈夫なのですか」
「飲み過ぎないように言っといた。先に喧嘩を売っておけば、むきになって自制してくれるんだ。後で“だから言ったじゃないですか!”って言われるのが嫌みたいで」
「酔ってますか?」
「え?」従者は自分の頬に手を当て、首を傾げた。「ああ、そうかも。きみに言っても困る話か」
「男同士の惚気話を聞かされるのって相当、気持ちが悪いです」
「惚気じゃない」従者は苦い顔をした。「愚痴、だけど。どっちにしろ迷惑だな」
「はい」ティアナは頷いた。
「でも、まあ、明日から一緒に行動するんだから、どんな人間なのか、少しは知っといてくれた方がいいかも」
「……さっきも言いましたけど、私、恋人いますからね」
本当は恋人の予定の人だけど。兵役が終わって帰ってきたら付き合って、なんて言われたのだ。親しい友人だと思っていたから驚いた。
「羨ましい話だ」
従者はため息をついた。この青年に恋人がいないというのは意外だ。顔がよいにも関わらず、決まった相手がいないということは、きっと何かしらの地雷があるのかも知れない。たとえば口が軽いとか。もしかしたら浮気性だとか。今のところの偏見だが。
従者はティアナの家の前で「また明日」と挨拶をして、そのまま帰っていった。ティアナは数秒だけ扉を閉めるのを遅らせて、彼の後ろ姿を眺めた。変わった人たちだなあというのが正直な感想だった。
いつも領主様のご用でやってくる騎士はもっと偉そうだし、従者も、騎士の威光を借りてやっぱり偉そうなのに。明日の心配は、少なくとも一つは――威圧的な貴族様に無理難題を言われる可能性は――なくなったようだ。
ティアナの母親は旅人だった、らしい。昔の記憶をなくしてしまったのだというから、詳しいことはわからない。
村外れに倒れていたのを猟師だった父が拾い、世話をするうちに夫婦になって、ティアナが生まれた。余所者にも関わらず、明るく無垢な性格が村人たちに気に入られていた。手先が器用で、習った織物もみるみる上達し、収穫祭で女神様の祭壇に捧げる大布を織り上げる役目を任された。ティアナが五歳の時だった。
規則的な機織りの音を、窓辺でずっと聞いていたことを覚えている。空が高く、青かった。落ちていきそうなくらいに。もうすぐ恋人になるはずの男の子が外の壁に寄りかかって座り、空を見ながら二人で色々な話をした。
祭の日、祭壇に布を献上する時に、母は消えてしまった。教会の入り口から舞い込んだ強風が大布を広げて翻らせ、収まった時には、そこにいたはずの母が、どこにもいなくなってしまったのだ。
いいひとだったから、女神様か夫君、それともその娘達のいずれかに取られてしまったのだろうと、村人たちはティアナを慰めて一緒に泣いてくれた。
父の消沈は深く、それでも年月が経つ内に、徐々に家に笑顔が蘇ってきた。
四月前、満月の夜、父が山へ入っていくまでは。「――聞こえるんだ。あいつが泣いてるんだ。絶対に連れ戻してくる。また三人で暮らそう」と、真剣な眼差しでティアナの制止すべてを拒絶し、父は夜闇に溶けていった。翌朝になっても戻らず、後を追ったティアナが見つけたのは、途中で途切れた靴跡と、そして巨大過ぎる蹄の跡だった。
と、総てを話したわけではない。父が消えてからのことだけだ。二人の同行者は「へえ」とか「うーん」とかあまりはっきりとしない反応で視線を交わし、周囲を見渡して首を傾げた。
山道を歩きながらの会話は、慣れていない者には随分と負担らしい。まだ一時間と経っていないのに、騎士は既に呼吸を荒くしていた。「そんな重い鎧を着てくるからですよ」と従者がティアナの内心を代弁してくれた。彼は大きな背嚢を負っているが、足取りは軽かった。
早朝の山は明るい。この辺りの森林は数百年前に戦禍で焼けたものを、代々、少しずつ植林してきたのだ。伐採権は領主様にあるけれど、生活に必要な分を切り出してよい場所を定めてくれている。管理人以外が立ち入ってよい区画は、数年おきに方角で変わるから、裏山に登るということだけのために何度も領主様に手紙を書かなくてはならなかった。
「鎧がないと、獣が出た時に戦えないだろう」
「当たらなければどうということはありません」
「無理を言うな!」騎士は無理やり歩調に勢いをつけて、ティアナと並んで歩いていた従者の背に手を伸ばそうとする。従者は軽い足取りでひらりと躱し、態勢を崩して蹈鞴を踏む騎士を呆れ顔で見下ろした。
「まだ元気みたいですね」
「当たり前だ」
「休憩は当分あとでいいよ、ティアナ。あと二時間は歩こう」
「えっ」騎士が素頓狂な声を上げた。まるで幼い少女のようなその声に、ティアナは思わず吹き出してしまった。騎士は憮然としたような顔をしたが、結局、何故か彼自身が笑い出して、無礼は有耶無耶になった。
「いやあ、久しぶりに笑った」騎士は楽しそうに言った。笑っている間は立ち止まっていたから、少しは息が整ったようだった。「別に、沈痛な生活をしていたわけではないのだが、戦ってばかりだと、どうもね」
「はあ」ティアナは頷いた。面白かったは面白かったけれど、そんなに大笑いすることだっただろうか? とは思いながらも。とにかく怒られなくてよかった。
「昨日も随分と歓迎してもらった。がんばらないと」
黒栗毛の前髪の下で、琥珀の双眸が真摯に瞬いた。
一時間、少し歩調を緩めて歩くと、村を見下ろせる高台に出た。周辺に幾つかある管理人の小屋のうち一つが、斜面から離れてぽつんと立っている。周囲に獣の気配がないことを確かめてから休息を取ることにした。
出発した時には直接は見えなかった太陽が高さを増し、清々しい午前の光を降り注がせている。九時を回った頃だろうなとティアナは検討をつけた。
「ここまでは山に入る村人が使う道を通ってきましたが、この先は獣道を探して登ります」
「道なんてあったのか!?」騎士が声を上げた。
「王子様……」従者が憐れむように呟いた。
また言い合いになりそうだったので、ティアナはわざとらしく咳払いした。劇の登場人物がやるように。
「四月前、わたしが獣の足跡を見つけたのは、この先です。あまり麓へは下りてこないみたいで」
「どこが麓なのかよくわからないな」従者が立ち上がって高台の縁へ近づき、景色を見渡した。「ここを裏山と言ったね。村の裏にある山の、その更に裏を見下ろしているわけだけど、なんていうか、山ばかりだ」
ティアナも立ち上がり、彼に近づいていった。縁よりかなり手前で立ち止まり、片手を挙げる。「ここから」と、一点を指さし、その手を横へと動かしていく。「ここまでが、裏山です」
「ああ、うん、そんな気はしてた」従者は、地に石突きを当てて立てた槍に寄り掛かり、うんざりしたように言った。ティアナは山の名前や方角を言わなかったが、手振りで察してくれたようだった。この人は話が早くて助かる。どんな地雷で恋人がいないのかは知らないけれど。
「しかし随分と山ばかりだな。他の土地との交流はあまりないのか」騎士が倒木に腰掛けたまま言った。
「北の、お二人が来た方角にある街とは行き来がありますよ。自給自足には狭い土地なので、木工品を売って、ものを買って来るんです」
「最近の、外の話は聞かないか?」
「外の?」ティアナは目を瞬かせた。外というのは、つまり、ティアナや他の村人たちが使う意味での外だろうか。村と、周辺の畑や野山と、北の街を除いた、その他の土地。つまり外。
「戦争をしているとは聞いています。村からも男手が兵士に取られていますから。無事に帰ってくるといいのですが」
騎士は一瞬、従者を横目にした。それから躊躇うように視線を彷徨わせた。十秒近くが経ってから、彼は立ち上がった。その動作も時間稼ぎのように見えた。
「最近、あちこちで怪物が出るんだ」
「え?」ティアナは首を傾げた。突拍子のない話だ。確かに何十年かに一度くらいは、そういうものが出たことがあると知ってはいたけれど、騎士の言い方だとまるで頻繁なことのようだ。
「国の東側で、村落や旅人が見たこともない獣に襲われる事件が頻発していて、警護や討伐のために軍が組織されている。それでも、軍で片付くなら、まだいい方で……」
「…………」
狩るために軍隊が必要なほどの獣とは、どのようなものだろうか? 子供の頃、ティアナがせがめば、父は若かりし日の武勇伝を聞かせてくれた。翼を広げ、爪に子供を抱えて飛び去ろうとしていた黒い怪物を、弓矢で撃ち落としたのだと。長じてからは冗談か誇張だと思っていた。
「きみたちからの手紙は、ただの獣のせいではないと判断された。だから私達が来た」
「え」ティアナは瞬きした。「騎士様、なんですよね」
黒栗毛の少年は「ああ、いや、」と軽く手を振った。「慣れているから、という意味だ。心配することはないよ、お嬢さん。この金拍車は本物だ」
ティアナは返答に迷って、視線を彷徨わせた。
ティアナと大して身長の変わらないようなこの騎士様が怪物退治に慣れているなんて、なかなか信じ辛い。だけど、もしかしたら、見えないだけで強いのかも知れない。騎士なのだから専門的な戦闘の訓練を受けていることは間違いない。
ティアナは、騎士の剣を見つめた。
騎士はその視線に気づいたようで、言った。「これは、うちに代々伝わる魔剣の一本で、まあ、怪物退治に向いているやつだ」
「はあ」
「具体的なことは教えられないけど」
「はあ……」
なんだか怪しい、と態度に出てしまったらしい。相変わらず崖っぷちに立っていた従者がティアナを見て苦笑した。
「たとえ今の剣の話が王子様の大嘘だったにしても。害獣だろうが怪物だろうが、俺たちが倒してやるから心配はいらない。だけど、目的地に辿り着くのは、きみ頼りだ。よろしくね」
「はい」ティアナは頷いた。なんだか誤魔化されたような気もしたが、騎士の従者から、君頼りだなんて言われるなんて思いもしなかった。きっと名誉なことなんだろう。たとえ偽りだとしても。でも、今は、名誉よりも、きっと、父の仇を討ってみせる。生きて見つかれば――なんて願う期間は、もうとっくに過ぎているのだから。
「無理はよくない、と思う。二人とも疲れないか?」
そう呟いた騎士こそ無理をしているように見えた。意地でも鎖帷子を脱ぐ気はないようで、息を荒げながらの一歩一歩は、ひどく重い。
「王子様、無理はよくありませんよ」と従者がぴしりと言った。実は、彼は従者ではなく腐れ縁で一緒にいるだけなのだと道すがらに聞いていたけれど、それでもやはり、騎士に付き添って世話を焼いているのだから従者なのだろう。槍という呼び名は、騎士が彼の持つ槍から勝手につけたのだろうと思ったが、本名らしい。
騎士の名も聞いた。アルブレヒトという、いかにも貴族らしい名前だ。帝国内に領地を持つ伯爵の嫡子で、つまり、王子様というのは誇張ではなく貴公子だ。
秋の太陽は既に天高く、昼も間近だ。ティアナは道を探して先導したり、道を探すふりをして立ち止まってあげたりしながら進んだ。道を知っているのはさっきの高台までで、こんなところまで来たのは二度目なのだと、いつ言うかは迷っていた。
「もうすぐ着きます」とティアナは言った。実は確証はなかった。
右手に見える大きな岩には見覚えがある。が、目印にするには心もとないのではないか、似たような景色は付近に幾らでもあるのではないか。
猟師の娘だから山のことは知っている。その言葉を誰もが信じた。嘘に後悔はない。仇を取るのだ。隠し持った短剣を思い浮かべる。父が、小さな獣を捌くときに使っていたものだ。両刃で危ないから触るなと昔から言われていた。危ない刃物を器用に使う父は格好よかった。
「ここはどの辺りなんだ?」
騎士が呟いた。ティアナはぎくりとした。「ええと、さっきの場所から南西に……」と適当なことを言ってどうにか乗り切ろうとする。騎士は首を傾げて「ふぅん」と納得したような、或いは聞いてもわからないと思考を放棄したような反応をした。ティアナはとりあえず安心し、従者の方を横目にした。彼は主人よりも聡そうだったから。
「あまり登った気はしないな」従者が言った。
「そ、そうですね。緩やかに登ったり下ったりしていて。体感しづらいかも知れません」
「…………」従者は切れ長の目を細めた。「はぐれたら帰れなくなりそうだ」
「気をつけないといけないな」と騎士が言った。
従者が応えた。「ええ。気をつけてください」
「さっさと出てきてくれれば、山登りも終わるのだが」
「獣の気配なんて……」と、ティアナは周囲を見渡した。そして一点を見て硬直した。
――息もかかろうかという距離に、怪物がいた。
「え」
怪物、と呼ぶしかなかった。ごわごわした毛皮に覆われた顔は、何かの獣であるようだ。だが見たことあるどの獣とも違った。強いていうなら、先程、騎士から怪物と聞かされて、うっすらと想像した、気味の悪い曖昧な影によく似ていた。
「ティアナ!」
叫び声。腕を引かれる。従者がティアナを引き寄せる。騎士が慌てて剣を抜くのが見えた。「嘘」ティアナは思わず声を上げた。「さっきまで」いなかったのに。「下がってろ!」騎士が叫んだ。その声の迷いのなさに、ティアナはぞくっとした。
「あ、あの」ティアナは従者を見上げた。従者は不審そうな表情で、騎士の後ろ姿を見ていた。或いはその向こうにいる獣を。「ちょっと待ってね、様子がおかしい。襲ってこないみたい……?」
「え」と、もう一度呟いた時だった。
不意に、足元の地面が消えた。
浮遊感に似た落下感。「は?」とか「わあ!」とか声が聞こえたが、ティアナは突然のことに言葉を失っていた。叫び出せば、きっと、肺が空になるまで止まらなかったかもしれないけれど。
天地がぐるぐると回る。落ちていく。落ちていく。落ちていく。暗闇に、青い光が無数に浮いていた。綺麗だ、と、ふと思った。それどころではなくても。落ちていく。悲鳴が聞こえることに気がついた。少女の声だ。落ちていく。青く光る場所へ落ちていく。やがて何も聞こえなくなった。ティアナを抱える少年の腕が力を失って、離れた。ティアナは初めて、彼に庇われていたことを思い出した。落ちていく。
寒い。
そして、青い光に飛び込んだ。盛大な水音を最後にティアナは意識を手放した。