添え文
レンツ様
お探しの資料 二点、
入手いたしましたのでお送りします。
「例の乱に関するヒルデブラントの記録」 ※複製。何者かの註記有。本物は焼失。
「アデルハイトの手記」 ※不明。ご自身でお確かめください。
ご確認後、通常通りの方法で費用の引き落とし許可をください。
ところで、私どもは昨月より、斜陽国産絹織物の取引規模拡大を開始いたしました。
一昨年より斜陽国で続いている内戦によって、現在、絹の価格は高騰しており…
(後略)
同封の焼き菓子は、是非、お子様とお召し上がりください。
今後、ますますのお引き立てをお願いいたします。
ヒルデブラント・レンツの記録
私、ヒルデブラント・エデンが父の位を継ぐにあたって、その経緯と心境を記録しようと思う。
祖母に倣って。
アデルハイト・フォン・レーエンの手記には、歴史の真実が書かれている。
誰が言い出したのかはわからないが、私が物心ついたときには、母方の祖母はそういった曰くつきの人物として語られていた。私は母の三度目の再婚で遅く生まれたから、直接は祖母を知らない。ただ、彼女を語る母の、どこか遠くを見るような悲しそうな目差ばかりが記憶に深く刻まれている。私は年頃の少年の例に漏れず、英雄譚を好いていた。だから幾度も、母に、あの目をさせてしまった。
甲冑を纏った女神。戦乙女の化身。祖母は多くの名声で呼ばれた。過酷な戦の末、恐ろしい化物たちから国を護り抜いた勇士たちの一人として。そしてレーエン家の悲劇の姫として。
“私は英雄の名に値しない。”
そう綴った手記は、私の手元にある。
母は、それを燃やすつもりだったらしい。手帳は、油に浸した紙に包んで、暖炉の中に押しこめられていた。
すぐに火を入れなかったのは躊躇いだろうか、それとも、倹約家の母らしく、暖を取るときまで待つつもりだったのか。真相はわからない。母はあの日、亡くなった。領地の端で、乗っていた馬車が襲撃を受けたためだった。
父は血相を変えて犯人を狩り出した。母を殺したのは領民の男たちだった。裁判所に引きずられて出てきた時点で彼らは既に満身創痍だった。配下の騎士たちが、先に、非公式な裁判を行ったのだろう。肋が浮くほどやせ細った、愚かな男たち。彼らは口汚く父を、私を、騎士たちを罵った。
その年は凶作だった。赤子を絞め、老人を棄て、娘たちを余所にやり、それでも足りぬ糧から税を取り立て安穏と暮らす領主とその一族が許せなかったのだと。
父は殺せと言った。それどころか自ら剣を握り、彼らの首を落とした。宝剣の飾りは欠けていた。
紅玉と、削り落とした金箔を持って、母は、食料の援助を乞いに生家へ向かうところだった。彼女が何着の服を売り、幾つの飾りを質に入れたかなど、彼らには関係のないことだ。
“俺たちは英雄だ!”
そう叫んだ首が、私の足元に転がってきた。
私は、彼らが、祝勝会と称して、母が工面した財を酒に替えたことを知っていた。
だが彼らは領民たちにとっては英雄に違いなかった。搾取によって醜く肥え太る貴族に反逆した勇士は死んだ。彼らの意思を継いで反乱が起きた。私は志願し、父の代わりに騎士たちを率いて鎮圧した。
まともな武器も、食料もない貧民の群が、武装した騎士団に勝てるはずがない。ましてや我々は戦支度の最中にあった。凶作で国が弱った隙を狙う諸侯は幾らでもいた。そういった狼たちから、領土を、領民を護るための軍勢は、反乱の民を簡単に薙ぎ払った。
数日後、母の一番上の兄が訪れた。彼は母が先に出していた手紙でこの地の惨状を知るや、愛する妹の窮地を救わんと、二月分の小麦を持って駆けつけてくれたという。伯父は夥しい躯の山に呆気に取られ、母の死を知ると涙した。
“彼女は英雄だった。”
そう囁いた声は、私の耳元を滑り落ちた。
母の生家は、特に、英雄という言葉と強く関わりがある。レーエン家は古くから、輝く十字の丘と呼ばれる一帯の土地を治める豪族だった。嘗て、偉大な神の血を引く王が君臨した帝国の時代には、武勇で以って爵位を賜り、帝国が滅んだ今でも一角の武門として知られている。多くの武人を輩出し、多くの者が歴史に名を残してきた。
祖母もその一人だ。女の身でありながら、正体を偽って戦場に立ち、屈強な男たちに劣らぬ活躍をした。女であることが知れて婚姻のために連れ戻されるまで、常に最前線で戦い続けた。と、されている。
伯父も、英雄になろうとしている男だった。レーエンの名のためだけではなく、私生児であろうと囁かれることが多かったせいだと、私は思っている。伯父は、私の母方の祖父に似ていない。祖父は真鍮のように暗い色の髪をしていたが、伯父は輝くように見事な金髪だった。背は均整が取れて高く、武人らしく筋肉質でありながらも靭やかな、猫科の肉食獣のような男だった。また、何よりも顕著であるのはその眸で、希少な藍方石のような色をしていた。私が知る限り、伯父ほどに深い色の眸を持っている人間は他に見たことがない。
伯父は家督を次男に譲り、その助力をしていた。援助の小麦は、伯父が所有するささやかな財産を処分して用意したものだった。
“彼は英雄だ。”
そう連なった文字は、震えていた。祖母の手記。その中の言葉。
私は伯父に手記を渡した。伯父にとって、あの手記は、極めて血の近しい二人の形見だから。伯父は、失われたものと思っていた、と言った。母が持ちだして隠していたことを、伯父は知らなかったのだろう。古びた紙を慎重に捲り、しかしすぐに躊躇って閉じ、礼を言って胴着に仕舞う伯父に会釈を返しながら、私はふと思った。母は、このひとに見せないために隠していたのかも知れない、と。
祖母には、他に愛した人がいた。言葉を限ればそれだけのことだ。
ここまでが、五年前のことだ。今の私の話をしよう。その後の話をしよう。
父は、母を喪って以来、一気に老け込んだ。病床につくことが多くなり、半年前からは立ち歩くこともできなくなった。元が、それなりに手柄を立てるまで嫁取りを遅らせていた老騎士の、晩年での結婚だった。母は当時で三十近かったが、父は四十代も後半に差し掛かっていた。薹が立っていたとはいえ、レーエンの末娘だ。持参金代わりの土地と城で、父は貧乏騎士から領主になった。女とはこのように扱われるものであったが、父は、年下の、三度目の式を挙げる花嫁を本気で愛した。
我が母ながら、美しくはない女だった。祖母の代以来、レーエンの血を引く女は不遇であった。時に淑女らしさを、時に英雄らしさを求められ、どちらかに自己を定めることができず常に揺れていた。父は、その危うさを愛したらしい。自らより出自が高く若い女の、どうしようもない脆さを。
弱者を傍に置くことで、自らの強さを認めたかったのかも知れない。父は武勇ではなく栄光を求める男だった。私は父を、尊敬も、侮蔑もしていなかった。ただ、父が、幼い私に聞かせてくれた父自身の武勇伝の何割かが他の男のものであったと知ったとき、父は私の英雄ではなくなった。それだけのことだ。肉親の情はある。
私は、この遠征を終えたら父の位を継ぐ。継ぐと言っても、爵位もない豆粒のような領土だが、ないよりはいい。もっと多くを手に入れたいとも思う。堅い城を。強い兵を。善良な民を。誰も餓えぬ広い畑を。
得るためには戦をしなければならない。
“私は裏切り者だ。”
そう祖母は書いた。婚姻のために戦場を離れざるを得なかったのならば、さぞ美しい無念だっただろう。数多の英傑が死にゆき、砦が崩れ、ただ一人となるまで戦い続けたあの隻腕の勇者は、果たして、祖母を誹るだろうか。
“共に戦うと誓ったのに。”
それが女の限界だ。戦はやがて政となる。政は生贄に女を求める。甲冑を纏い男のように戦った祖母も、女であることからは逃れられなかった。ならば美しい悲劇だ。
藍方石の眸の男が軍を挙げたのは三月前、晩夏の時期だ。
伯父は、主人であり弟でもある男の城を一夜にして攻め落とし、その首を城壁に飾った。
私は早馬で大凡を聞き、父をとめてと縋りついてきた従妹の言葉で詳しく知った。
死人の悪口を書くものではないが、当主であった男は、善政とはかけ離れた統治を行なっていたらしい。私は実情を知らない。どのような人物かと母の侍女であった老婆に尋ねれば、曖昧な笑みで、悪い方ではないのですがと濁った言葉を返された。ええ、その、少しばかり思慮の足りないお方です。ですが、長兄様は、しっかりしていらっしゃる方で、よく支えてくださっておりますので。
随分と、あの伯父を持ち上げる。老婆は声を潜めて言った。あの方は。……アデルハイト様のお側にあった彼の方と、よく似ていらっしゃいます。戦が終われば、お二人は結ばれるはずでしたのに。
私は伯父の本心を知らない。声明は、人々を苦しめる愚劣な領主を廃したとだけ告げていた。
伯父が血の確かさを求めていることを、私は知っていた。
認められぬ子。秘された夜を厭いながらも、そこに真実を探らずにいられない男。伯父はきっと、無心で頁を捲っただろう。戦の最中に陰謀ごっこに精を出した諸侯ではなく、血反吐に塗れて戦い続けた無二の英雄、その系譜の先に、己がいるのだと。確信を求めて。
だから、私は、手記を渡しただけだ。祖母の裏切りを美しい物語に差し替えて。けれど伯父の求める真実はそのままに。
“逆賊に死を。”
王が高らかに告げた。
私は志願した。私もレーエンの血を引く者。血族の名誉に懸けて、罪深き私生児に死を、と。
“往け。若き英雄よ。”
司祭が祝福を歌った。
勇敢な伯父が死ねば、レーエンの男は私を除いて死に絶える。
武門の名も、広大な土地も、私が継ぐことになるだろう。私は手に入れたいのだ。堅い城を。強い兵を。善良な民を。誰も餓えぬ広い畑を。
陣の天幕からは、城の灯りを見下ろせる。私は、輝く十字の丘という地名の由来となった高台に布陣した。雪と屍に覆われた荒れた土地も、厳しく古い城も、すべてを見渡すことができる。伯父には、城を守るに足りる兵はない。
私は昼間、降伏を促す使者を送っていた。夕方、それは首を切り離され、馬の背に括られて帰ってきた。会談すらも拒否する、断絶を示す意思だった。だから、私は伯父が反乱を起こした理由を知らない。起こすだろうと、漠然と思っていただけだ。伯父は正義感の強い男だった。私は、それを、出自の不確かさを埋めるために彼が得た性質だと考えているが、或いは違うのかも知れない。伯父は情の深い男だった。私よりも、ずっと。
父の命が絶えたと、夜入りに伝達があった。私は先ほど略式の襲位の儀式を済ませ、できた時間でこの記録をつけている。正式な相続は反乱を鎮圧してからになるだろう。城を陥とし、暫くこの地に留まって後始末を済ませ、その後、王都へ赴くことになる。
払暁、総攻撃をかける。
そして私は手に入れる。堅い城を。強い兵を。善良な民を。誰も餓えぬ広い畑を。
血塗れの英雄など必要のない、私の国を。
3986年11月3日
ヒルデブラント・エデン
註記:
上記はヒルデブラントが父姓エデンを名乗っていた時期のもの。
彼は姓を、襲位にあたってフォン・レーエン、後に従妹ペトラとの婚姻にあたってレンツと、二度、改めている。
筆不精な人物であったらしく、手記は上記抜粋部分を含め、転機となる5日分しか記されていない。
(以降の日付の文章は、必ず「多忙のため間が開いてしまったが」で始まる。)
アデルハイト・フォン・レーエンの手記
時折忘れそうになるが、私の名はアデルハイト・フォン・レーエン。
この混乱した状況を少しでも整理するため、記録を取ることにする。
3935年
4月6日
状況が悪くなり続ける中、転戦に転戦を重ねてきた。今日、カルムで彼と数年ぶりに再会した。様変わりしていた。以前からの長身には筋肉がつき、すっかり歴戦の風格だったが、餓えた猫のようでもあった。昔、何度も差し出してくれた右手は武器を持つためだけにあるようだった。
4月7日
非番。彼と一緒にカルムを散策した。コスタの店で昔の話をした。あの頃は私も彼も、本当の戦争のことなんか知らなかった。前の従者が重傷を負い戦えなくなったことを伝え、一緒に来てくれるよう頼んだ。哀れなクルトは帰ってくる気だが、もう前線には出られないだろう。彼は考えさせて欲しいと言った。
4月8日
飲み過ぎた。昼前に部屋を出ると、彼が意地の悪い表情で立っていた。“遅い朝ですね、士官殿”だと。うるさい従者だ。二日酔いのまま市内警護。眠い。他のことを書く気力もない。もう寝る。
4月15日
驚いたことに彼は見違えるほど腕を上げていた。最前線を生き残った故だろうか。剣の使い方を教えてやったのは私なのに、訓練試合で、私は彼に一勝もできなかった。私自身は幸い、他の男達にまだある程度、勝ち続けていた。だが彼にだけは勝てない。
4月17日
半月の間、市外での任務。襲撃に遭った村落からの救援要請が絶えないらしい。
城代が困り果てている。ただでさえ、遠征に出た兵士がほとんど戻ってこないのに。私と彼、寄せ集めの志願兵でとりあえずカルム西一帯を巡る。
4月30日
彼が隣にいる限り、私は、局所的な戦闘力については何も困ることがなくなった。斃せと命じれば彼は斃し、殺せと命じれば彼は殺した。救えと命じたときだけ失敗があった。到着したときには既に滅んでいた集落を、私たちは救えない。
5月8日
ブルクハルト卿の演説、護衛任務。私たちだけでなく、周辺にいるほとんどの兵が呼び戻されたらしい。勘弁して欲しい。何事も起こらなかった。年寄りは話が長くて困る。半日も立ちっぱなしでくたくた。卿はこのままカルムに滞在して拠点を置くらしい。演説後、城代と喧嘩。大規模な配置換えがありそうだ。
5月17日
夜が怖い。部屋の隅の暗闇で、目の前で殺された少女が私を睨んでいる。
5月27日
次の配属先が決まった。昔は閑な農村だった。今は退きに退き続けた最前線が、その場所だ。私は準備をしたが、彼は乗り気ではなかった。郷里なのだという。家族との不仲など初めて聞いた。戻ることを考えると吐き気がすると。残るかと問うと、行くと言う。郷里だからと。我々は出立した。
5月30日
死んだ少女が追ってくる。眠れるよう薬を飲む。夢さえ見ずに眠れば、無事に朝を迎えられる。
6月11日
村は物々しい雰囲気だった。兵士が集い、即席の防御壁や櫓が連なっていた。住人は皆、不安そうだ。彼は意外にも暖かく迎え入れられた。私は接収の屋敷に泊まり、彼に一日、休暇を与えた。離れていた家族との再会だ、一晩くらい家で過ごさせてやりたい。私はもう何年も家族に会っていない。
6月12日
襲撃があった。被害は少なかったが、防御壁が何枚か壊された。矢にも限りがある。修復のために一日中走りまわった。彼は昼過ぎに戻ってきて私を手伝ってくれた。私は彼に休暇の様子を聞いておきながら、昔のように少し微笑んで答えた彼にいらいらした。
6月15日
今日も襲撃があった。
(頁欠損)
8月2日
補給が途絶えた。私達は見捨てられるのだろうか。
8月8日
今日は平和だった。思いついて、父に手紙を書いた。手が震えてうまく字を書けない。だけど父なら読み取ってくれるだろう。子供の頃の私は本当に字が下手だった。それでも両親は辛抱強く読んでくれた。彼が巡回から戻ったら届ける手配をさせよう。蝋燭の買い足しも。
8月15日
食料の危機はひとまず解決した。久しぶりにまともな食事をした。
8月16日
彼が丸一日も休暇を望んできた。駄目だ。今は非常時だ。だけどそれはいつ終わるんだ。
私だって休みたい。
8月21日
今日も襲撃があったらしい。外には死が溢れている。部屋の中では死人がこちらを見ている。私はどこへ行けばいい。
9月3日
今の食事は、後方の集落から徴収したらしい。手段を問うと彼は口を噤んだ。思わず頬を張った。彼がやったのでないことはわかっている。私達が飢えて死ねば、もっと多くの人が死ぬことになることもわかっている。書きながら後悔している。
9月9日
防御壁を破られた。敵は中に雪崩込み、討伐までに味方が三人死んだ。もう援軍は来ない。ベルヴァルド将軍と口論。女の癖に、だって。私も前線に立って戦ったというのに。ベルヴァルド卿こそ農民あがりじゃないか。戦時の混乱に乗じて出世したからって、偉そうに。
訂正:五人
9月12日
夜、帰ってくる彼と鉢合わせした。夜に潜むための服装で、近づくと襟元から香水の匂いがした。妹に会っていたのだと言うのだけれど、彼に妹なんていない。私がこんなに苦しんでいるのに。
9月13日
今日も襲撃があった。
9月14日
今日も襲撃があった。
9月19日
彼が薬をくれて、少し楽になった。防御の状況を確かめた。思っていたほど悲観的ではなかった。寝不足のせいで悲観的になっていたのだろう。これならやれると言うと、彼は少し笑った。前より大人びているように見えた。そうだ。私たちはいつまでも子供ではいられない。
9日25日
また彼が夜に外出している。村はずれに腹違いの妹が住んでいるんだと。私は騙されない。また薬がなくなりそうだ。彼に入手先を尋ねたが、曖昧に笑うばかりで答えなかった。また持ってこいと約束させた。最近は悪い夢を見ないが、薬の力だということはわかっている。切れたらきっとまた悲鳴が聞こえる。
10月22日
私はまだ戦える。
11月2日
今日の敵は強かった。五人死んで、兵隊の半分が無理やり徴用した村人になった。彼らはすぐ逃げる。役に立たない。いっそ家族を連れて後方の都市に避難してくれればいいのに。戦うと言って戦わない。最悪だ。兵士達には期待せず、戦える者だけで戦わなければならない。
11月4日
彼の外出を禁止した。一番強いのは彼だから、ずっとここにいてくれないと困る。敵はいつくるかわからない。代わりに、薬をやめろと言われた。やめられるだろうか。助けられなかった人達が、きっと私を恨んでいる。彼に薬を渡し、気晴らしに鍛錬に付き合わせる。やはり勝てない。
11月5日
陳情が届いたのか、物資の補給がきた。少ない。命ある限り持ちこたえろと。国内では私達は英雄なのだそうだ。そんなことはどうでもいい。ここは地獄だ。父からの返事はない。手紙は事故にあったのだろうか。それとも私は見捨てられたのか。確かに、ここには英雄と呼ばれるべき立派な人間が何人かいる。だけど、国が求めているのは、無償で命を投げ出してくれる、都合のいい人間のことじゃないか?
(解読不能。寒い、という単語だけが辛うじて読み取れる)
11月9日
彼が上着を貸してくれた。今夜はこれを着たまま寝る。彼に、蝋燭が消える前に新しいものに取り替えてくれるようお願いする。一緒にいてと言うと、彼は少し困った顔をして、見張りを他の人と交代してくれた。今さら、美人だなんて言われても困る。というより、初めて言われた。テオの口先にまんまと乗ってしまった。(解読不能)あの眸が好き。母が持っていた首飾りの藍方石とおなじ色。また今夜のようなことが
何を書いているんだ。
11月10日
今日も襲撃があった。ベルヴァルド卿、ロルフ、ハインツ戦死。
私たちがここにきた当初の人間はほとんど残っていない。遺体は今までの死者とおなじく聖堂に運んだ。
11月12日
彼の様子がおかしい。話しかければ返事をするが、ずっとぼうっとしている。終わりのない持久戦に参ってきているのだろう。皆、もう限界を越えている。今日、襲ってきた敵の死体の片付けには手間取った。今まで以上にばらばらだった。
今年、はじめて林檎を食べた。もうすっかり冬になろうとしている。
去年に引き続き、聖夜を祝う余裕はなさそうだ。そもそも、それまで私は生きていられるだろうか?
11月18日
そろそろ食事を減らしはじめる。
もう、徴収できる村落もほとんどないらしい。
11月29日
糧食が尽きた。敵が連れていた獣の肉を食べた。吐き気がとまらない。食事をした半数が腹をくだしたらしい。私はまだ軽症だ。まわりを不安がらせるわけにはいかない。(解読不能)雪が降り始めた。寒い。
11月30日
私は捨てられたんだ。しょせん女だからか。いつもそうだった。両親は兄ばかりかわいがって、私はいつもその下だった。あんなできの悪い男のどこがいいんだ。(解読不能)私の方がずっと優れている。あんなぐずより。
12月1日
腕をつかまれて目が覚めた。彼はまだ元に戻らない。
昨日から頭痛とめまいがひどい。疲れているのだろうか。
12月7日
まだ頭が痛い。体中がだるい。彼がくれたりんごを食べられなかった。果物なんて貴重なのに。
12月
父は私を忘れていなかった! 連れ戻すための処理に時間がかかった、すまなかったと、使者の口から伝言を聞いた。今日ほど神に感謝した日はない。これでもう、終わりのない戦いとも、死んだ少女の目とも、お別れだ。彼がいればここはなんとかなる。だってあんなに強いのだから。
12月22日
ようやく故郷に辿り着いた。涙がとまらない。父は暖かく迎え、ねぎらってくれた。家族と食卓を囲むのが、こんなに幸せなことだったなんて。夢みたいだ。私は帰ってきた。
12月19日
前線のことが気になる。あそこに残った人達はまだ戦い続けているのだろうか。父は私を気遣って、外の情報から遠ざけてくれている。あんな場所に自分がいたなんて、まるで夢のようだ。傷も癒えてきた。深いいくつかは一生残るだろう。
12月29日
少女が部屋の隅にいる。彼もその隣に。ぽたぽた血が落ちる音がする。私はとんでもない裏切りを犯してしまった。私は彼と共に英雄と呼ばれていた。彼は英雄だ。けれど私はその名に値しない。
(日付なし)
そうだ。私は裏切り者だ。共に戦うと誓ったのに。
(解読不能)
ごめんなさい。戻れない。許して。
私はもう剣を握れない。
ここに暴かれるべき真実などない。この女は ..
「その通りだ。彼女は……」
男は手にした紙束を暖炉へ投げ入れた。
勢いを増した炎が横顔を照らし、藍方石の眸を煌めかせる。
古い紙は瞬く間に燃えて、黒い塵と化した。