扉を叩く音がした。女は顔を上げ、そちらをのろのろと眺めた。
 木の扉は年月のために縮み、枠との間の隙間から灰色の光が漏れていた。気づけば外の騒ぎは収まり、遠くから、市民を集める四・二拍の鐘が聞こえていた。
 ふと横を見ると、子供は女をじっと見上げていた。
 女は彼に頷いて、店の入口へ向かった。
 再度、扉が叩かれた。女は無愛想な声で答えた。
「悪いけど今日は閉店したよ。出す食い物がないし、鐘が鳴ってるからね」
 沈黙が答えた。女は待ったが、返事はなかった。
 覗き窓から外を覗くと、立っていたのは菓子屋の老人だった。
「奥さん、開けてください」
 と彼は言った。
「黒溶糖が、ほんの一欠片だけ残っておりましたので。是非あなたに差し上げようと」
 女は扉を開いた。老人は両手に小さな箱を持っており、彼女の姿を見ると一礼した。
 冷気と共に、桂皮と香料の匂いが鼻先を掠めた。
「何故?」
 女は尋ねた。
 老人は悲しそうに笑った。
「あなたが去った後、店の片付けをしておりましたら、不意に思い出しました。あなたはもう何十年も前にも、一度、私の店においでくださいましたね。あの時のあなたは」
 老人は言葉を探すように、口を閉じた。
「……喪服を纏っておられました」
 そうだっただろうか、と女は思った。彼の店の、表の扉を潜った記憶はなかった。だが、老人が、弟さんのために黒溶糖をお求めになりましたと言った時に、思い出した。彼のために泣く前に、呆然と、何もかもが霞がかったような心持ちで、甘い匂いのする扉を開けたことを。
「そうだったね」
 女は愕然とは答えた。焦りのあまり言葉は妙に早くなった。
「そうだった。黒溶糖を一つもらった。雪砂糖がかかった、小さなやつを。随分と昔のことをよく思い出したものだね。だとしても、わざわざこんなところに来なくたってよかったのに。使いでも寄越してくれりゃ、あたしがそっちへ行ったよ」
「確かに、この寒さの中を歩くのが辛い歳にはなってきましたが、最後に店へ来てくださったお客様にはこの足で商品を届けに来たかったのです。ほんの一欠片。冷えて固まり、形も歪んで、溶かして流し入れる型ももうないとはいえ」
「わざわざねぇ。ご苦労なことだ」
 女は答えた。
「それで、幾らなんだい、その黒溶糖は」
「お代は結構です、奥さん」
 老人は、彼女に箱を差し出した。片手に収まった箱は小さく、色褪せた赤い絹の帯の結び目が冬の風に揺れた。
「あなたはご主人も亡くされたと、聞きました。親切な方が道を教えてくださったので、その時に」
「そうだよ。主人は戦争に出たきりだ。もう十年以上も前のことさ。手柄を上げて騎士になって帰ってくるとか言ってたが、そう簡単にはいかないもんだ」
 女は苦笑した。十歳は年下の給仕女を口説き落として嫁にするような、腹の出た飲み屋の亭主が騎士になれるはずがなかった。
「今は、お一人なのですか」
 女は振り返りたくなった。しかしそうしなかった。
「残念なことだ。息子も死んでしまった」
 彼は彼女の息子でも、弟でもなかった。春になれば出て行くだろう。
 老人は悲しそうに笑った。
「お互い、多くを失くしたものですね、奥さん。私は明日、北へ向かいます。戦が始まる前に、街を出て、娘の元へ行くのです。ええ、そうするつもりでした。ずっと」
 老人は、さあ、受け取ってくださいと、黒溶糖の箱を差し出した。
 女は恐る恐る手を伸ばした。触れたら指先が焼け爛れるのではないかと思いながらも、抗えなかった。幸福と絶望に記憶には。
 横手から伸びた腕が老人を突き飛ばした。
「……あっ」
 老いた細い躯は不様に倒れ、低い呻き声が静寂の底に響いた。鐘は既に止んでいた。
 女は目を見開いて男を見つめた。
「何を」
 男は無言で老人を見下ろした。老いた彼は痛みのためにもがいていた。そしてその片手には包丁を握っていた。女は息を呑んだ。
「何を。何を……」
 老人は首を横に振った。
「奥さん、これは、これは、違うのです」
「何が、違うの?」
 男が無造作な口調で尋ねた。女は男を横目にし、ぞっとした。男は藍方石の眸は、娘の時分に憧れたより遥かに無情だった。
「黒溶糖を……届けに参りました。これは、治安が乱れております故に……何かの時に、身を守れるようにと」
 嘘だった。どうしてこんなことを――ただ混乱しながらも、嘘だということだけはわかった。貨のためか、食べ物のためか、それとも他の何かのためか。わかるはずがない。女は、老いてしまったこの老人のことを何一つ知らない。彼女が知っているのは、遥か昔にいた、一人の若い菓子職人だけだ。
 男は首を傾げた。
「それを信じると思う?」
 女は顔を上げ、叫んだ。
「やめて! 彼の言う通りだ、乱暴はしなくていい。どうしてあんたは、そうすぐに暴力で解決しようとするんだ。この人を見てご覧よ、あたし以上の老いぼれじゃないか、あんたは何をしようって言うんだ」
「……何故?」男は困ったような顔で女を見た。
 何故なのか、女はわからなかった。手の中には箱があり、絹の帯が風に揺れている。強く握りすぎた箱は歪んでいた。
 ああ、だけど……彼を殺してしまったら、思い出も死んでしまう。或いはこの老人はそれを殺しに来たのかも知れないと、それはきっと、見当違いの思いつきに違いなかったけれど。
「何故でも」
 女は言った。路地裏の無愛想な職人が、子供の笑顔に応えて僅かに口元を綻ばせたことを思い出した。
 彼は知ってしまっただろうか。黒溶糖が一人の少年を燃やしたことを。
「何故でもだ、兄さん。あたしはもう、昔馴染みが死ぬのを見たくない」
 老人がよろよろと立ち上がったが、女は彼を見なかった。
「奥さん」
 彼は言った。
 女は震える声で答えた。
「ありがとう、受け取った。早く帰りなよ、こんなに寒いんだから」
 老人は呆然としていたが、一礼して去った。
「お入り」
 女は告げた。
 男が、低く囁いた。
「間に合った」
「え?」
 女は問い返した。
 男は急に彼女を抱き寄せた。女は驚いて振り払おうとしたが、男は意に介さなかった。
「いつも、間に合わなかった。誰も助けられなかったんだ」
 声音はすぐ耳元だった。女は呆れた声を上げた。
「あんたね……」
「きみが無事でよかった」
「勝手に出かけておいて何を――」
 女は振り向きながら怒鳴りかけたが、酷く深い安堵と疲れの色をした双眸を見て思わず口を噤んだ。
「戦争になるかどうかだけ、確かめたかったんだ。きみの街を燃やさない方法を探すために。一人で敵に飛び込んでもよかった。でも、そのせいでまた間に合わないかと思った。幾ら化物を殺しても死んだ人々が帰らないのとおなじように、あの子を助けられなかったのとおなじように、きみも」
「……兄さん」
 女は呻いた。脳裏には焼けて横たわる弟の姿があり、病に喘ぐ息子の姿があり、槍を持って城壁の外へ出かけた夫の姿があった。
 男は、ごめんねと囁いた。
 女は、彼のその言葉が弟のことであると確証を持てなかった。
 弟のことだろう。しかし、彼女が見知らぬ他の人々のことでもあるだろう。
 彼の目の前で、一体、何人が死んだのか。女は男が嘗て何と呼ばれていたかだけは確信したが、そう呼ぼうとは思わなかった。
 伏せた瞼の奥で、炎が揺れる。あの悲鳴には永遠に手が届かない。
 女は彼を完全には許さないまま、しかし幾らか穏やかな気分で答えた。
「間に合ったんだから、泣くんじゃないよ。いい歳してみっともない」
「うん」
 女は嘆息した。
 「寒いし、重い。さっさと中に戻るよ。あんな鐘、知ったことか。これ以上、外にいたら骨まで冷え切ってしまう。あんたの坊やもあんたを待ってるんだから、ぐずぐずするんじゃないよ」
 手の中には歪んだ箱が残った。老人の姿はもうなかった。