「寒い?」
子供がそっと寄ってきた。女ははっとして首を横に振った。
「暖炉が、ついてるじゃないか。暖かいよ」
ごみが入った風を装いながら目元を拭い、上着を脱ぐと、裾から雪が落ちた。女はそれを踏みつけて溶かした。
その間にも、扉の外の騒ぎは大きくなっているようだった。店を閉めていてよかった、と思った。様々な憶測を語り合いたい者はいるだろうが、閉店の札を無視してまで入っては来ないだろう。
酒は尽きかけており、日頃の惰性で訪れる他に、客は殆どない。
男と子供が逗まっている間は、それまで程には店を開く必要には迫られていなかった。
「悪い人が、来るの?」
子供は、女の視線を追って扉を見ていた。
女は苦笑した。
「来ないね。客に出せる食い物なんかない。ここら辺の連中は皆そんなこと知ってるさ。それでも押し入って来るやつは馬鹿だ。通りに出れば、ここよりまだいい店なんか幾らでもあるんだから。少なくとも人間の食い物が欲しけりゃ、別の店を選ぶさ」
子供はじっと女を見つめた。
「でも、あのひとには……」
「兄さんは」
女は唇の端だけを吊り上げた。暖炉の炎が揺れている。体に熱が当たり、冷え切っていた肌がぴりぴりする。
耳の奥で、悲鳴が聞こえた。あの時、弟は、この子よりも小さかっただろうか。
「いいのさ、兄さんには。あのくらい言ってやらなきゃ、明日まで帰ってこないだろうよ」
子供は、女に向けてそっと両手を差し伸べた。女は彼の意を汲んで外套を預けた。
子供はそれを壁にかけるため、奥の部屋へと消えた。そちらは闇に沈み、空気は冷え切っているように見えた。
店と居住区と、屋内には二つの暖炉があるが、同時に火を入れることはない。
「あのひとのこと、嫌い?」
闇の中から、控えめな、怯えたような、声が尋ねた。
女は一瞬、返事に窮した。脳裏を過ぎったのは、優しく頬を撫でる右手の熱と、祈りのような声。
そして、教会の外の柱の影に佇む、石膏像のように触れ難い立ち姿。
「いや」
嘘つきはあの男だけではない。思いながら女は答えた。
「いや、そんなことはない。嫌いだったらとっくに追い出しちまってるさ。あんなやつ、凍えて死んじまえばいい。蝋燭一つの火もやらずに」
女は神経質に笑い、子供を手招いた。そして暖炉に近い椅子に座らせた。
「冷えてるじゃないか、すっかり。火には当たっていなかったのかい?」
女は言った。
子供は、困ったように笑った。
「あなたの手の方が、冷たいよ」
「じきに暖まるさ。外は寒かったからね」
女は、くくと笑った。
「兄さんの手は、もっと冷たい。触れられると鳥肌が立つよ」
「……うん。冷たい」
子供は頷いた。女は苦笑して、柔らかな髪を撫でた。
外の騒ぎはますます激しい。女は、ふと、この街にも戦を知らない人間が随分と増えたものだと気づいた。
外では常に戦いがあった。しかし、城壁の内側へ波及することは決してなかった。女の住む街は、数十年前の街道整備で要衝を逸れたために一定以上の繁栄は享受できぬものの、平時にはそれなりの賑わいと平穏があった。
若い時分に聞いたあの七拍の鐘は、本隊からはぐれた異国の兵士達が、強盗とも物乞いとも判断つかぬ有様で街に接近したためのものだった。結局、彼らは街の守備隊と、彼らと共に出た数部隊の傭兵達の手によって彼らの神に召された。
子供は不安げに扉を眺めていた。
女はその頭を抱き寄せて大丈夫だと囁いてやりたい衝動に駆られた。男をからかうためだった言葉を、実際に、今、この場で放ってしまいたいとも。それ程、孤独は長かった。
「平気かな」
子供は顔を上げた。子供特有の柔らかな頬の輪郭が、暖炉の炎に赤く照らされている。産毛がちらちらと光って、幻のようだった。
「さあね」
女は呟いた。
あの男はきっと城壁の外へは出ないだろう。街中を歩きまわったところで、流れ者が得られる情報はたかが知れている。それでも、扉の向こうで騒いでいる連中よりは詳しくなって帰ってくるだろうが。
――或いは。連絡もなく、非常時に警備隊が集める傭兵に志願しているかも知れない。と女は思った。
あの時は彼は行かなかったらしいが、今度はどうだろうか。あの男なら、この子供のために敵を総て排除しようとするかも知れない。その敵とは、城壁の外に迫っているという選帝侯の軍のことであり、そして。
「……」
女は炎に視線を移した。弟を焼いた火は、未だ赤々と輝いていた。
女は熱に眼球が乾くのを感じながら、思った。彼の敵は、この子に危害を及ぼすものだろうか、それとも彼からこの子を奪う可能性のあるものだろうか、と。
子供が身じろぎした。女はふと衝動に駆られた。
「ここで」
女は呟いた。
子供は顔を上げて、女を見た。
女は頬を引き攣らせて微笑んだ。
「ここで、暮らす気はない? 春が来ても」
「え」
「あたしを見てご覧。どうだ、もう随分な歳に見えるだろう。実際にそうだ、一人で店をやるにはもう厳しい。寒いと胸が痛む、暑いとすぐに息が上がる。料理を作るのに、昔ほど繊細な手捌きはできない……まあ、これはまだ何とかなるがね。それでも、若くて、元気な手伝いがいるといいんだが」
「でも」
子供は困ったような顔をした。あの男に、女が度を越えた要求をした時に見る表情とよく似ていた。
女は首筋にぞくぞくとする痺れを感じた。それは恐怖に似ていたが、禁忌を犯す興奮に近かった。
子供はじっと女を見た。
「今も、胸、痛いの?」
「いいや、今は暖かいから。朝、起きる時、外を歩いている時、水を汲んでいる時……寒さは体にとても堪える。あんたがそれを実際に感じるのは、まだ何十年も先のことだろうがね」
子供は頷いた。
「あなたのことは、好き。ずっとここにいたいけど」
「兄さんの方がいいのかい?」
あの男も留まるなら、と、仮定の話をしようとしたが、言葉は喉に閊えた。
暖炉の傍で子供に物語を聴かせる姿も、女に銀貨を渡す際の苦笑も、永く共にあるとは想像できなかった。宝石色の双眸に湛えられた穏やかな光は、一時のものだ。女にはわかる。何せ、彼女は彼より年老いているのだから。嘗て見た、あの冷え冷えとした空虚こそが、あの男の本質なのだ。
狂っているのは何なのか。娘の恋か、女の目か、それとも男の時なのか。わかりきったことだった。女の目が見たものを、娘の恋が拒絶した。それだけの簡単な話だ。
「あのひとと、約束したの。一緒に帰ろうって」
「約束なんて」
女は言いかけた。
子供は首を横に振った。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「ごめんなさい。約束したの。僕も、あのひとも……」
「同郷なのかい?」
女は尋ねた。あの男に、故郷などというものは似つかわしくないように思えた。
子供は、わからないと答えた。
「でも、一緒に帰る」
子供はぼろぼろと泣き出した。
女は、ああと声を上げて、服の裾で彼の頬を擦ってやった。
「ちょっとお待ちよ」
それから立ち上がり、小さくなりかけていた暖炉の火を育て、薄めた葡萄酒を入れた鍋を鈎にかけた。
酸化した葡萄酒は舌に刺さるような味がするが、温めて、貴重な蜂蜜を入れてやれば泣いている子供にも飲ませられる代物になる。
女は子供に背を向けて鍋を掻き回した。鍋の葡萄酒はすぐに湯気を上げ始めた。女の鼻先を古い酒の匂いが掠め、店中に広がった。
女が杯を卓子に置くと、子供は鼻を啜って袖口で顔を拭い、熱で酒精が抜けた葡萄酒を、そっと飲んだ。
女はまた、彼の頭を撫でてやった。
「あのひとのこと、嫌い?」
子供が、再び尋ねた。
「何故?」
女は尋ねた。内心、ぎくりとした。
「そんな気がする、だけ。気のせいかも。ごめんなさい」
女は吐息した。
「昔は好きだったかも知れない。私が小娘だった頃、兄さんは立派な大人に見えた」
「…………」
「兄さんがあんたを連れて初めてこの店に入ってきた時、亡霊が来たのかと思ったよ。兄さんはとっくに死んじまってて……あの頃の姿のまま、弟を連れて帰ってきたのかと思った。だが違った。残念なことに。あの兄さんは誰なんだい、死神でないのなら」
「あのひとは……」
子供は杯を両手で抱えて、声を潜めた。
「誰にも、言わない?」
「どうだかね。余程に面白いことなら、酒の肴にするかも知れないが」
女は嘆息した。
子供は困ったような顔をして、言った。
「じゃあ、教えられない…・…」
その一種の懸命さに、女は笑いたくなった。
あの傭兵が弟の黒溶糖を奪おうと手を伸ばし、抗った少年を暖炉に投げ入れた時にも、それが因となったのだ。
弟はあの甘い固まりをどうしても姉にやるのだと言って大人の男に歯向かった。あんなもの、くれてやればよかったのに。
女が手を伸ばした先で、黒溶糖は弟と共に焼けた。
傭兵達はざわついて店を出て行き、焼け爛れた弟が死んだ後、あの男は帰ってきた。
「黒溶糖」
娘が呆然と囁く声を、彼はきっと聞いたろう。
「黒溶糖が、焼けてしまった」
あの時はまだ弟が焼けたと信じたくなかった。葬式が終わり、軍隊が街を去っても女は泣かなかった。路地裏から、首を切り離されたあの傭兵の死体が見つかった時も泣かなかった。
終戦を告げる鳩が首都から放たれ、街が歓声に沸き返った時に初めて、失われたものを思って嗚咽したのだった。
「兄さんが誰だって、間に合わなかったんだ」
女は乾いた笑みで言った。
「警告はしてくれたけど、それじゃあ、足りなかったんだ」
子供は意味を理解しないまでも、顔を曇らせて、女の頬に手を伸ばした。
《鋼の帝国》年代記
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