南の山脈を越えて敵の大軍がやってきた時、古の神の血を引く偉大な王は、自ら軍勢を以って邀え撃つことを決めた。
国中の騎士や貴族が首都に集まり、槍の穂先や甲冑の煌めく様を人々の眼に灼きつけた。
彼らはあまりに大勢であったため前庭に入りきらず、城壁の外に並べた天幕で閲兵を行うことにした。
城壁の中の人々は、名誉ある勇士たちの出自と称号を告げる喇叭を聞き、盾と剣を打ち鳴らす音と、馬の嘶きを聞いた。
城壁の上には救国の勇士を一目でも見んと市民が押し寄せ、手巾や硬貨を投げて彼らの活躍を祈った。
地方の都市には傭兵が集まり、募兵所には血気盛んな若者が押し寄せた。彼らは勇気と正義に溢れ、自らの力を振るい、身を立てる機会を夢見ていた。ただ、若さ故に現実を知らなさ過ぎた。
実際の傭兵は殆どが寄せ集めのならず者に過ぎず、彼らの存在によって治安は荒れた。その癖、戦が起これば、志願した若者達は殆ど生き残らなかった。
女はその頃は娘と呼ばれる年齢だった。娘は家計を助けるために飲み屋で働いていた。
やがて、市議会によって、その飲み屋は傭兵の一隊の逗留所に選ばれた。若い女が目の前にいては、いずれ何かをされかねぬ、彼らが去るまで仕事を休めと言われたが、女はやめなかった。
娘の働き先は当時は旅人を泊める別館を持っていた。傭兵達はそこに寝泊まりし、昼から夜にかけては浴びるように酒を飲んだ。彼らは武器を持っており、体格が大きく、しゃがれた声で怒鳴るように言葉を交わしたが、陽気に杯を掲げて顔を真っ赤にする様は、なんだ、他の客と大して変わらないではないか、と娘は思った。
傭兵の中に一人、奇異な人物がいた。
その男は石膏像程にも整った容姿をしており、凪いだ眸は人のものとは思えぬ程に鮮やかな色をしていた。立ち振る舞いは無造作だったが、獅子のような優雅さがあった。
娘は過去に一度、檻の中の獅子を見たことがあった。男はまさにその獣だと思ったが、ただ、常に少し伏せ気味の眸は、獅子が格子を眺める目差よりずっと空虚に見えた。他の傭兵達とは明らかに違う生き物だった。
触れることはできないと思った。たとえ目の前に手をかざしたとて、彼はその手指を噛み切るどころか、視線を向けさえしないだろうと思った。
男は滅多に訪れなかったが、時折現れては端の席で一杯だけ酒を飲み、銀貨で支払った。
彼は傭兵達から一定の敬意を払われており、彼の姿が店内にある間は、傭兵達の騒ぎの度が過ぎることはなかった。彼は隊長と呼ばれていたが、実際に部下をまとめる役割は他の傭兵が担っていた。彼は、ただ、その場に現れるだけで、屈強で野蛮な男達を大人しくさせた。野生の獣が、その場にいるだけで己より弱いものを萎縮させるのに似ている、と、娘は思った。
「あんたがもっと来てくれればいいのに。あんたがいないと、あいつら、とてもうるさいのよ」
そう、銀貨を受け取りながら言ったことがある。
男は苦笑のような表情で答えた。
「この隊は、じきに町を出て行く。数日中に出撃要請があるはずだ」
「寂しくなるわね。折角、繁盛しているのに。普段はねえ、どれだけ閑古鳥が鳴いてるか、あんた、知らないでしょ?」
「余所から来た乱暴者に、あまり愛想よくしない方がいい。毎日のようにそんな笑顔を見せられていれば、誰かは勘違いを起こしてしまうよ」
「それってあたしが美人だから?」
娘は勇気を奮い起こして尋ねた。
男は僅かに笑ったように見えた。
「きみは綺麗だよ。だから、尚更に」
「そうよ、あたしはこのあたりで一番の美女よ」
娘は答えた。喝采を上げたかった。
「戦争が終わったら、金持ちの奥方になるわ。この髪を宝石で飾って、絹の衣装を着たら、もっと綺麗になるのよ。あんたもそう思わない?」
「思うよ。きみは綺麗な奥方になるだろう。だから暫く、ここには来ない方がいい。待機命令が長すぎて、皆、鬱憤が溜まってる。いつまでも大人しくしていられるとは思えない」
娘は彼の忠告を鼻で笑った。彼女は傭兵を、腕っ節の強い酔払いの集団だと思い込んでいた。彼らは時折、喧嘩をして店内のものを壊したが、それは血の気の余った男なら、誰でも一度はやらかすことだと。そう思っていた。
都市の治安は乱れていたが、まだ戦場になったことはなく、彼女は戦のことも兵士のことも、一切を知らなかった。
翌日、その愚かさを身を持って知った。
弟が死んだ。
女は身震いした。
風が強く、空は曇り、雪の気配があった。空気は湿って淀み、呼吸の度に肺が痛んだ。
近年、冬になると胸が痛む。女の年齢では珍しくないことだった。母も、女程の年齢の頃、肺が痛いと言っていた。その数年後には管の壊れるような音が息に伴ない、ひっそりと死んだ。
女は鞄を抱えた。活気のない市場を抜け、石畳の立派な家々の通りから裏路地へ入り、入り組んだ狭い道を歩く。時折、浮浪者や、壁を抜けた難民が踞っていたが、彼らが眠っているのか死んでいるのかは判断がつかなかった。どちらにせよ女には関わりのないことだった。
暖炉を、消さなければよかったかも知れない、と思った。薄い上着越しに、冬は容赦なく体温を奪った。凍えて帰る自分を、暖かな光と共に迎えてもらえればどれだけよいだろう。しかし炎に気を許すことはできなかった。弟を殺したのは、今は彼女のものになった店の暖炉なのだから。
頭上から、有事を知らせる鐘の音が聞こえた。
分厚い金属を叩く音は冷えた空に響き渡り、女は町中がざわめくのを感じた。
足元に転がる人影の幾つかは不安げに視線を上げたが、それ以外の景色は代わり映えなかった。それでも女にはわかった。街に住む者なら誰でも知っている通り、七拍を繰り返す警鐘は戦の前兆だった。女は目を伏せ、早足で家を目指した。
店の並びの狭い道には、見知った顔が幾つも出てきていた。女は彼らから何が起こったのかを聞いた。
新しい王に反旗を翻した南西の選帝侯の軍が、街を包囲しようとしている。彼らは五つの領地を越えて新しい王を追走してきたが、あまりに国土が荒れているため、冬を越す糧食を手に入れられなかったのだと。
「さっき、使者があったらしい。彼の兵士に十分な食料を渡さなければ城壁を破ると」
仕立屋の徒弟が駆けてきて言った。彼は若者らしい血気に逸り、今すぐにでも城壁へ馳せ参じようという様子だった。
女は彼の後ろ姿を見つめる老婆の表情に気づき、目を逸らした。そして、ただ鞄をきつく抱え、吐き捨てた。
「そんな食い物、ここにあるもんか。馬鹿な連中だね」
その選帝侯様とやらの軍が間近に迫り、城壁の外の難民の群と積み重なる骸の山を見た時、彼らは何を思うだろうか。
城壁を入り、疲弊した人々を見たとして、恐らく気には留めないのだろう。そして残り少ない食料と、他の総てを根こそぎ奪って去っていく。町中が炎に包まれるだろう。刃が猛威をふるうだろう。
考えれば笑いたくなった。滑稽だ、何もかもが。いっそ彼らが焼き払ってくれればいい。火は、きっと、地獄のように焼き尽くす。
徒弟は更に何かを言ったが、女は聞いていなかった。陰気な目で一瞥し、店へ戻った。
「おかえりなさい!」
子供の声が出迎えた。店の中には蝋燭が灯り、暖炉が燃えていた。
十歳にもならない子供と、まだ若い男が一人ずつ、女を待っていた。子供と遊んでいた悪餓鬼はもういなくなっていた。
女は恐怖と安堵を同時に感じた。そして灯火に照らされた男の姿に既視感を覚えた。
彼は暖炉に二番目に近い卓子から立ち上がった。
「遅かったから、もう少ししたら探しに行こうと思っていた」
女は震えながら頷いた。
「寒いわ」
「ごめんね、暖炉をつけた。この子が凍えていたし、きみが帰ってきたらそう言うと思った」
男は一息の後で続けた。
「実際、とても寒かった。明日はきみがとめても薪を買いに行ってくるよ」
女は首を横に振った。彼女が彼の前を横切って厨房へ消える間、誰もが無言だった。扉の外、薄汚い狭い道の騒ぎは徐々に広がりつつある。彼らは都市に幾らかの兵力があることを知っていた。だが、城壁の内側に篭城する蓄えがあるとは信じられなかった。
女は初めて、もう警鐘が聞こえていないことに気づいた。
恐らく、女の店は鐘から離れすぎており、音は薄汚れた細い通りの底までは辛うじて届いても、扉や壁に阻まれてしまうのだろう。外のざわめきが音の尻尾すら殺した。
「明日」
沈黙の後で、女は嘲るように呟いた。
「明日があるならね」
「たとえ戦争になっても、明日で負けることはないよ」
女は男を睨んだ。
「そんなことじゃない。そんなことじゃないんだよ、兄さん。あんたにはわからないだろうが」
壁の内で震えるしかできぬ、平凡な、疲れた女のことなど。
「様子を見てくる」
男は身を翻した。彼は傍らの椅子から外套を取り、羽織った。女は反対した。
「噂好き共に任せておきなよ」
男は首を横に振った。
「すぐ戻るから、その子を見ていて」
すぐ戻る。その言葉は女の記憶に刃を立てた。
「嘘だ」
女は厨房の卓子を叩いて怒鳴りつけた。
「あんたのすぐは、遅すぎる!」
子供が、目を見開いて女を凝視した。
男すら足をとめ、表情には薄くない驚愕があった。
女は失望した。あの時、一対の藍方石は決してさざめかなかったのに。
「そう言って、また外でぐずぐずしてくるつもりなんだろう、あんたはいつも手遅れなんだ。肝心な時にいない、役立たずめ。なあ、あんたの留守中に、自棄を起こした暴徒が押し入ってきたらどうするんだい? ここは飲み屋で、食い物があると思い込んでるやつは幾らでもいるんだ。食い物を持って、街を逃げ出そうって連中がいるかも知れない。あんた、それでも外に行くってのかい? また、あんたの留守中に子供が死んでもいいの?」
「まさか」
女の言葉に、男は困ったように笑った。
「笑うな! 誤魔化すな。あんたはそんなんじゃなかった。昔の方がまだよかった――言い訳しないだけは」
弟の葬式に彼は来なかった。祈りと歌の間、娘が乾いた目でじっと立ち竦んでいたことなど知るはずもなかった。
「あの」
子供が、極々小さな声で言った。
「行って、らっしゃい」
男は呪縛を解かれたように、彼の小さな同伴者を見た。
子供は言った。
「早く、帰ってきてね」
男は頷いて、出て行った。嘘つきめ。女は扉を睨み続けた。目の奥が熱を持ち、泣き出しそうだった。
あんたが帰って来なかったから、あの子は死んだんだ。