女は広場へ辿り着いた。午後市は既に終わろうとしていた。常であれば日のある内は賑わうが、今は終わらぬ内乱のために物資が不足していた。萎びた野菜に目玉が飛び出る程の値がつき、麺麭一つのために殺人が起きる。
女は貧しかったが、犯罪を起こす必要はまだなかった。夫が遺した店は彼以上に女の生活をよく支えてくれている。最近では、銀貨も手に入る。女はそれらを、髪や服や靴に隠して常に持ち歩いていた。家の中のあちこちにも隠した。
女が当面を生き延びるには十分すぎる金額だったが、人前で使うには注意が必要だった。女は上着の襟を合わせた。冷気は布地を貫いて、骨まで染み入るようだった。
刃物のような風は腐臭を含んでいた。市場で売られる肉の臭い、道端の汚水溜まりの臭い、所構わず垂れ流される家畜の糞の臭い。或いは、城壁の外に群がり死んだ無数の難民達が腐る臭いですらあるかも知れない、と女は思った。
飢餓と寒さと疫病が多くを殺した。教会は貨のない者のためには祈らず、凍った死体を燃やす油は足りない。死者たちは積み上げられたまま放置されている。日が昇れば溶け崩れ、夜が訪れれば再び凍る。
それがこの世だ。と、女は思った。女が死ねば死体は共同墓地に投げ捨てられ、店は誰か他人のものになるだろう。数年も経てば、誰も女の名など忘れているに違いない。その考えは特に絶望的ではなかった。戦の絶えぬ国内では、それはまだよい死に方だった。
女の弟は燃えて死に、子供は病と飢えで死んだ。彼らの死に様は酷かった。
女はぼんやりとしたまま小袋の小麦と銀貨を取り換え、根菜だか木の根だかつかぬ野菜を幾らか買った。林檎の屋台の前も通ったが、男が度々するように、子供にそれを買ってやろうとは思わなかった。女からすれば眩暈がするような価格であったし、女は、子供がよすぎるものを持つのはよくないことだと考えていた。
――それを寄越せよ、なあ、待て、逃げるなよ。
耳の奥に残るがなり声は、女にとって死神の声に等しかった。
女は擦り切れた鞄に買ったものを詰めると、それを慎重に抱えた。包んでしまえば襤褸布の固まりに過ぎない。あまり慎重に隠しては、金目のものと見られるかも知れない。さもつまらないものを持っているのだと言わんばかりの、ぎりぎりの無頓着さで歩きながら、色褪せた木の出店の品揃えを目の端で睨む。
古い王は死んだ。
新しい王は帝都に上がり、大司教を脅しつけ、来月にも戴冠式を行うという。
七人の選帝侯の内、四人が新しい王に降った。東の雄、古き血の辺境伯も臣従を誓った。
それでも尚、戦は続いていた。幾つかの貴族は新しい王を認めず、同盟や外国の援助を受けて抗戦を続けている。小さな荘園しか持たぬ領主達は、混乱に乗じて領土を増やすべく、小競り合いを繰り返している。都市には難民が溢れ、農村からは人が消えつつある。
いずれ食料も尽きる。みな飢えて死ぬだろう。
それは都市に暮らす人々の諦観であった。商人はこの期に乗じて麦を買い占め、貴族に高く売りつけている。貴族はそれを兵糧に、更なる戦を続けている。
少ない品物を探し、買い物を終えた時には市場の反対まで来てしまっていた。
女は空を見上げた。鉛色の空からは太陽が消えてしまったのではないかと思えた。
鼻先を、甘い匂いが掠めた。女はさっと蒼褪めた。
市場が開かれる広場の外、石造りの連なりの一軒には看板がかかっていた。黒溶糖を垂らした菓子が描かれている。
元は硝子が嵌めこまれていた扉は、今は枠だけとなっている。
店内はがらんとして薄暗い。平時であれば、看板通りの色とりどりの菓子が並んでいるはずだった。
女は足をとめ、扉の奥を眺めた。甘い甘い黒溶糖。宝石のようにつややかな菓子は元より貴重品であり、祝いの日にしか手に入れられない程、高価だった。今では……或いは宝石とおなじだけの価値があるのかも知れない。
扉の奥で、物音がした。やがて、こつこつと足音が近づき、ぎい、と、扉は軋んで開いた。
白髪の老人が立っていた。
女は彼を知っていた。子供の頃、自分と似たような薄汚い格好の餓鬼と一緒に裏口に座り込んで待っていれば、彼は顰面をして現れ、失敗作の菓子を押し付けてすぐに扉を閉めたものだ。二度と来るなと言いながら、彼は何度でも繰り返した。子供たちは歓声を上げて分け合い、貪った。殆どは小麦を焼いたものだったが、時折、砂糖菓子や、黒溶糖の欠片がついていることもあった。
目眩がするような至福の記憶。弟と共に、それを抱えて家へ駆け戻ったのが悪夢の始まり。
「生憎ですが、店には何もありませんよ、ご婦人」
老人の声は疲れ果てていた。女は追憶が絶望に変わるのを感じた。
「何も? 飴も、黒溶糖も?」
女は思わず問い返した。次の瞬間には、馬鹿げた質問だと笑い飛ばしたくなった。
「ええ。戦で街道が荒れ、あちこちが封鎖されている今では、殆どのものが手に入らないのですよ」
老人は答えた。
女も、そのことはよく知っていた。だが苛立ちのために、半ば詰るように言った。
「甘い匂いがするけど、それでも何もないって言うの?」
「残香ですよ、ご婦人。店は売りに出すことにしました。五日、早く来ていただけていましたら、まだ何かお作りできましたが」
「材料がないから?」
女は尋ねた。彼女は、老人が自分を思い出すことを期待していた。だが彼は、大昔の裏口の子供とも、頭巾を被った飲み屋の看板娘とも、目の前の、老い、痩せた女を重ね合わせはしないだろうと直感していた。
「いいえ、ご婦人。量を減らし、値段を上げれば、作ることは可能でしょう。ただ、娘をやった街が、焼けましたので。黒溶糖を楽しみに遊びにくる孫もいなくなりました。見ての通り、私も老いております。もう潮時だろうと思いまして」
女は息を飲んだ。焼けた。皆、燃えて死ぬのだ。
脳裏を、悪夢の残滓が掠めた。幼い悲鳴が耳の奥で谺する。
女は鞄を抱える腕に力を篭めた。
「そう。ご愁傷様。邪魔したね、あたしはもう行くよ」
老人は彼女に深々と一礼した。女は踵を返し、振り返らずに去った。
《鋼の帝国》年代記
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救い手の系譜