「……で、あんた達は一体いつまで居座るつもりなんだい?」
 女は粗末な椅子に足を組んで腰掛け、不機嫌な早口で尋ねた。
 暖炉の傍で炎を眺めていた男は彼女を横目にして苦笑した。
「雪が溶けるまで。無理に出発して、あの子を凍えさせるわけにはいかないから」
 女は鼻を鳴らした。
「あたしもお人好しだね。一冬中も、屋根裏どころか暖炉の前の天国まで貸してあげてるんだから。ねぇ兄さん、考えてご覧よ。天井の上で歩き回られたんじゃお客がびっくりするし、あたしもゆっくり眠れない。おまけに、中には、あたしがふしだらな女だなんて噂するやつだっているんだから。子持ちの男を囲ってるってさ。ねぇ兄さん。傷ついたあたしの評判をどうしてくれるんだい?」
「気にすることはないと思うよ。きみは綺麗だから。このあたりで一番の美女だ」
 男は苦笑して答えた。その言葉が嘘であることは互いに承知していた。時折、女は彼にこの手の嘘をつかせて、喜んでみせていた。
 女は男の元に歩み寄り、彼の肩に手を置いた。男は端整な顔を上げ、彼女を眺めて微笑んだ。
「卑怯だねぇ、兄さん。そこまで言うなら、この美女に贈り物を捧げてご覧よ。おいしい食事をしたいならね」
「…… 喜んで」
 男は苦笑して、銀貨を取り出した。
 女は一瞬の内にそれを奪い取った。女は彼の富がどれほどのものかは知らなかったが、少なくとも今のところ、女への小遣い程度で枯れる額であるようには思えなかった。それに、この貨は、彼らの夕食の内容にも関わるのだ。
 貨をせびることが浅ましいと思うようでは、戦乱の絶えぬ時代を生き延びることはできない。女はそのことを熟知していた。若い娘であれば縁談もあるだろう。だが、女は既に年老いつつある。そして、幸せや命の儚さも知っていた。彼女は既に、夫も子供も失ったことがあった。
 それでも、夢中で銀貨をひったくり、手の中の輝きを確かめて笑う姿を男に見せることに一切のためらいがないわけではなかった。彼は、よい客だ。大人しく、金持ちで、悪態を受け入れる寛容さがある上客だ。
 彼は子供を連れている。その子は戦争孤児だと言う。
 十歳に満たないくらいの男の子だが、育ちがよいのだろうとはすぐにわかった。
 今は、客入りが悪いために昼も草々に閉めた店で、親しくなった近所の薄汚い悪餓鬼と遊んでいる。
 はしゃぎ声が漏れ聞こえている。子供は女に懐いており、男のことを信頼しきっていたが、同年代と遊ぶ声は二人に向けるよりずっと正直であどけなかった。
「悔しいんじゃないかい、あの子を取られて」
 女は敢えて、当て擦るように言った。
「子供は子供と遊んだ方がいいよ。ある程度の歳を取ってしまえば、彼らのことは理解できなくなる」
 男は答えた。女はそれを綺麗事だと思った。どころか、彼の言葉は大半がそうであると思っていた。容貌の美しさも、恐らく武力を以っての強さも兼ね備えていながら、彼は時折、酷く卑怯であるように見えた。
 年頃の子供特有の真理を貫くような疑問を耳触りのよい言葉で逃れ、無条件な信頼の目差を端整な微笑みで受け流し、それでいて依存を欲しているように、女には見えていた。
 それは決して、あからさまに目に付くような振る舞いではなかった。ただ、彼が「危ないよ」だとか「気をつけて」だとか子供にかける声に、ごくごくわずかな欺瞞の響きを感じるというだけのことだ。或いは勘違いかも知れない――四六時中も共にいる若い男が、自分にまったく関心を向けないことに、自尊心をまったく傷つけられないわけではなかったから。
 女は、唾を飲み、嘲るような笑みを浮かべた。乾いた皮膚が頬で突っ張る。艷やかさはまだ完全には失っていないはずだった。
「じゃあ、あの子が、あんたがここを出てってもここで暮らしたいって言ったらどうする? あの子はあたしに懐いてるし、あたしだったら、店の手伝いさえしてくれれば、飢えさせることも凍えさせることも、足が棒になるまで歩かせることもないんだ」
 男は首を傾げた。僅かに細められた双眸は無関心だった。いや、無関心を装っている――と、女は思った。女が藍方石の眸に見出した氷の刃は、女自身の背筋を震えさせた。だが笑みは辛うじて保った。
 男はすぐに女から視線を外し、壁越しに子供の方へ向けた。
「そうだね、きみの言うことは正しい。あの子に、どちらがいいか聞いてみるのも悪くない」
 女は息を吐き、立ち上がると、そそくさと上着を羽織った。罅割れた指先に繊維が掛かり、ちくと痛んだ。
 どこへ行くのかと問われる前に、女は言った。
「買い物だよ。二人も余計にいると、食い物がすぐになくなって困る。ほら、どきな。火を消すから」
「暖炉なら見ているよ。消したら、帰って来た時に寒いだろうから」
「信用できないね。火は、何にだって燃え移るんだ」
 女は暖炉に灰をかけようとした。
「代わりに行ってこようか」
 女は首を横に振った。
「あんたを市場に行かせたら、また血塗れで帰ってきかねない。しかも手ぶらでね。もうあんなのはごめんだよ、役立たず。あたしのために何かしようってんなら、さっさと出て行くか、ここで大人しくしているか、どっちかにするんだね」
 女は慌てて暖炉の火を消し、通りへ飛び出した。
「行ってらっしゃい!」
 子供の声が背に届いた。道はぬかるみ、端には薄汚れた雪があった。
 女は、寒さに身を縮こませて早足で歩きながら、少し言い過ぎたと後悔した。彼は女に愛想を尽かせば、この街の、部屋を余している別の店へ移るかも知れない。戦続きで何を手に入れるにも困る現在、上客を逃すのは愚か極まりないことだ。
 それに……
 彼は女が娘であった頃に告げた言葉を覚えているだろうか?
 娘には、彼は立派な兵士、立派な大人に見えていた。それが今では、確かに物静かで考えは知れないが、わかりやすい弱点のある若造ではないか。娘が恋に狂っていたのか、女の目が狂っているのか。或いは、男の時が狂っているのか。
 嘗て、あの目差は稀有なる貴石だった。あまりに無情な静謐さに、とても触れられはせぬと、かえって思い焦がれたものだ。女は罅割れた唇を噛んだ。あの冷たい煌めきは最早、失われていた。再会の日は、確かに見たと思ったのに。