静まり返った聖堂に、司祭の祈りの声が響く。朗々たる、歌にも似たその祝詞の旋律を、子供は息を詰めて聞いていた。傍らに立つ男の外套の裾を掴んで、俯いたまま。
 亡き父の剣、刃を聖水が滴り、祈祷の声が穢れを払う。神聖な筈のその儀式は、しかし子供を酷く不安にさせた。
「ねえ」
 子供は囁いた。声変わり前の、柔らかな声だった。
 男は視線だけで子供を見下ろした。どうしたの、坊や。と、形のよい唇が動く。
 子供の耳は、祈りの合間にその無声音を聞き取った。或いは錯覚だったかも知れない。
 子供は首を横に振った。
「このお祈りが、終わったら。剣に宿っていた父上の魂は、剣から離れてしまうの?」
「……そうだよ」
 男は小さく答えた。
 深々と冷気を貫く声に、落ち着きのない助祭が顔を上げる。
 子供は怯んで身を縮めたが、男は意に介さなかった。
「勇敢に戦い死んだ者は、女神の妹、戦乙女の宮殿に迎えられる。彼らは戦乙女の軍勢として有事に備え、国に苦難が訪れた際、愛し子やその末裔を守るため地上へ降りてくると言われている」
 その神話は、父から聞いた。戦場で散った先人達の物語と共に。疑ったことはなかった。だが父を失って以来、それを思い出したことはなかった。
 子供は、男の外套を掴む手に力を篭めた。
「その時は、父上も帰って来る?」
 男は僅かに首を動かし、子供を見下ろした。藍方石の眸に浮かぶ感情を、子供は知らなかった。子供は思わず目を逸らした。見上げた先で、女神の彫像は穏やかに笑んでいる。森深きこの国の母。揺籃にして、回帰の地。子供は彼女を見上げながら、大理石の頬は冷たいだろうと思った。
 祈りの声だけが空間を満たしていた。
 真冬の聖堂は凍える程に寒い。子供は手に息を吐き掛けた。男の外套を握ったまま、指は冷たく、感覚が消え、開くことができなくなりそうだった。
「……帰って来ない」
 平坦に、男は答えた。
 子供は彼を見なかった。子供が知る限り、彼は決して感情を呈に出さず、平静で、それでいて優しかった。だから子供は、無垢な願いを断ち切る言葉に含まれた絶望と切望に、気づくわけにはいかなかった。気づいたと、悟られたくはなかった。
「死んだ人は、帰って来ないよ。もう会えない」
「でも」
 子供は呟いた。声は石の床に落ちた。
 助祭はもう、二人を見ていなかった。
「でも……」
 否定の言葉は見つからない。鮮やかな赤。父は死んだ。地を埋める屍の一つとなり、他の無数の死者と共に野晒しに打ち棄てられた。
 視界が滲んだ。父上、と子供は言った。ごめんなさい、ごめんなさい。僕が戦に怯えないで、目を見開いて、もっと周りを見ていたら、そうしたらきっと、突き出された槍の穂先を、知らせることができたのに。幼い身で、剣を振ることはできなくても。
「だから人は貴いんだよ。魂も、戦乙女の宮殿も、嘘かも知れない。でもきみが忘れない限りきっと、総てが失われることはない」
 男は子供を外套の下へ引き寄せた。その手がどれだけの命を奪ったか、子供は漠然と知っていたが、抗わなかった。子供は男に寄り添って、声を殺して泣いた。彼は漸く、恐怖と絶望からではなく、失われたもののために涙した。
 熱い涙が頬を伝う。緩やかに凍てつき掛けていた心が溶けて、涙はとまらなかった。
 男は無言でいたが、やがて、「きみは、まだ生きて」と囁いた。
「あなたも」嗚咽の間から、子供は声を絞り出した。「お願い。一緒にいて」
 うん、と男は頷いた。魂の浄化と安寧を願う祈りだけが、冷たい聖堂に響いていた。