翌日、リュカは高熱を出した。
 店の女は例の早口で文句を言いながらもリュカを屋根裏から彼女の寝台へ移した。彼女は戦士をなじって買い物へ行かせようとしたが、リュカが嫌がったために、彼女自身がしぶしぶ出かけて行った。
 戦士は女に銀貨を渡して見送った後、寝台の横に腰を下ろした。靭やかな挙動は昨日の負傷の名残の一切を感じさせなかった。
 リュカは寝台の上から彼の端正な相貌を見上げながら前日のことを思い出そうとした。泥濘に滲む赤。血と紅玉。熱に浮かされた頭の中で幻影が巡る。
 リュカは、小さな声でごめんなさいと囁いた。戦士は首を横に振ってリュカの頭を撫でた。
 リュカは彼の手に自分の手を重ねた。熱を持った掌に伝わる冷たさが心地よかった。
「あなたは」リュカはぼんやりと訊ねた。「どうして、勇者様だったの?」
 戦士は目を細めた。幽かな表情の変化は微笑みに見えた。
「手に入れたいものがあったんだ。力を得れば、何かを成し遂げれば、叶うと思っていた」
「それは、何?」リュカは問うた。蕩けた脳は普段以上の無邪気さで言葉を紡いだ。
「もう、忘れた――いや」戦士は藍方石の眸を虚空へ向けた。リュカはその表情に、彼をすり抜けて過ぎた年月の長さを感じた。「帰る場所が欲しかったんだ。どうしても振り向いて欲しい人がいて、そのために多くを犠牲にした」
 リュカは黙って頷いた。その人は、とは聞けなかった。御伽噺の時代はもう過ぎた。
 代わりに戦士の手に触れた己の手に、そっと力を篭めた。
「臆病だから戦ったんだよ、坊や。きみにはまだわからないと思うけど」
「……うん」リュカは頷いたが、彼の言葉が朧げにわかると思った。孤独を恐れた余りに、雨間を一人で駆けたのだから。だがそのことは知られたくない。庇護者を失いたくないが故に、彼の願いを断ち切ったなどと。ただ一瞬であろうとも、きっと、彼は死を望もうとしたに違いないのに。
「大人になったら、わかる?」リュカは偽りを隠すために問い返した。
 戦士は苦笑した。
「きっとね。でも知らないでいて欲しいな」
「ううん、わかるようになりたい。あなたが何のために戦ったのか」
 ありがとう、と戦士は言った。リュカは後ろめたさを押し殺して頷いた。
「大人になったら、わかるかな。それまで一緒にいてくれる?」
 戦士は「きみが望むなら」と答えた。そうはならないだろうと、穏やかな声に含まれた苦味に、リュカは気づかなかった。
 戦士が変わらぬ姿で時を経るなら、いずれはおなじ高さで目線を合わせる日が来るだろう。リュカはそうぼんやりと想像した。血も、死も、嫌だ。けれど、無力に倒れ伏し、泥の冷たさに凍えるだけの絶望感は、もう二度と繰り返したくない。
 視線を巡らせれば、二振りの剣は壁際に並べて置かれていた。リュカはそれらをじっと見つめてから、視線を巡らせた。
「……短剣、は?」
「あるよ。新しい飾り石を入れて、きみにあげる」
「うん」リュカは頷いた。長く話したからか、また目蓋が重くなり、視界が暗くなった。「炎みたいに綺麗な赤い石がいい」
 戦士は肯いた。その気配を感じて、リュカは口を開いた。眠る前に、言わなければならないことがあった。
「一緒に帰ろう……僕が大人になったら、きっと、取り戻すから。あなたが帰るところも、ちゃんと」
 故郷の有様を実際に見たわけではなく、一晩が経てばますます信じ難かった。あの豊かな大地と戦場を結びつけて考えることはできない。それでも旅立ちの前の日常は遥か遠く、どちらにしても、もう戻れない過去だった。だとしても、手を伸ばしさえすればきっと、何かに届くことができるかも知れないと思わずにはいられなかった。
「だから、待っていて」
 戦士は、約束するよと答えた。
 リュカは安心して眠りに落ちた。