リュカは目を見開いた。赤い血が、ぼたぼたと滴っていく。
 口の中には、苦い液体が溜まっていた。言葉を発することはひどく億劫だが、呼びかけなければならないと思った。粘つく喉の動かし方を思い出そうとしながら、リュカは辛うじて声を上げた。
「……ゅ、う……、しゃ、さま…?」
「平気だよ」平坦な声が応えた。「心配しないで、坊や。きみは帰れる」
「帰れない」死は答えた。「守備の兵は鏖殺され、村も平原も焼き払われた」
 戦士は短い沈黙の後、もう、陥ちていたのか、と応じた。平服の生地が吸いきれなくなった血が地に滴った。殆ど同時に、彼は背を丸めて呻いた。びちゃり、と落ちた一塊の血は吐いたものかも知れなかった。
「そうだ。矜持とは厄介なものだな、徹底抗戦を選んだために鏖とは」
 男は気怠げに言った。彼は地に剣を立てて片手を空け、衣嚢から煙草の箱を取り出したが、それは水を吸ってしまっていた。
 男は眉を顰めて箱を投げ捨ててぼやいた。「口寂しいな。煙草、持ってないか? ないよな。三十年かそこら前に付き合いで吸わされて、すぐにやめたもんな」
 戦士は答えなかった。リュカには、彼は片膝を立て、外套の下で、裂かれた胴を右手で押さえているように見えた。血は際限なく落ちていく。強い雨が血と泥を混ぜて、じわりと色を変えていく。
「不死身の勇者、救国の英雄、無二の救い手。どんな名で呼ばれようと、お前は殺すことでしか誰も救えなかった。他の方法も、いくらでもあったはずなのにな? そういう道をお前は選ばなかった。結局お前は化物殺しの英雄で、今はただの人殺しだよ。人殺しに、死そのものから誰かを救うことはできない。お前は坊主を救えない。だから」
 男はわずかに語調を強めた。「魂を寄越せよ、兄弟。代わりに坊主は返してやる。悪い取引じゃない。お前は坊主を救って空虚な生を終わらせ、俺はこの手で触れても消えない炎を手に入れる」
「悪い取引じゃない」
 戦士は俯いたまま答えた。彼の足元は雨と泥にも消しきれぬ赤に染まっていた。只人ならば既に倒れている出血だった。濁った咳にまた長躯が折れる。
「空、虚か」荒い呼吸が響いた。戦士は掠れた声で、途切れ途切れに囁いた。「化物など、いなくなればいい。戦さなどなくなればいいのに。人を傷つける総てを殺してしまえたら……」
 男は渇いた声で笑った。「その時には、地上に人間は誰一人として残らないだろう。そして最後にお前がお前自身の喉を掻っ捌くしかない。それでお前が死ねるなら」
「わかってる」戦士は答えた。リュカがはっとするほど虚ろな声だった。リュカは肘に体重をかけてわずかに上身を起こし、膝で這って手を伸ばした。後少しで、泥に浸った外套の裾に届くと思った。
「……わかってる。際限がないことも、誰の望みでもないことも」
「お前は十分よくやった。どれほどの血に塗れたか、どれだけの痛みを受けてきたのか、俺は他の誰よりも知っている」
 男は地に突き立てた剣の鍔に肘を乗せ、寄りかかった。剣はわずかに泥に沈んだ。彼は短剣を眺めて言った。「もう、休めよ。魔女の呪いは、お前がこれを手放すことを望めば、それだけで解ける」
 簡単すぎて意外だろう、と男は笑った。「だがお前は、決してそれを望みはしなかったはずだ。情念を封じられて何かを望むなど――いや、そうでなくとも、彼女の贈り物を、自ら手放そうなどと。なあ、だが、年月は過ぎ、あの魔女も老いて死んだ。他の総ての人間とおなじように」
「大昔の、ことだ」戦士はまた咳をした。続く声は微かだった。「ずっと昔のことだ。彼女の声すら、もう……」
 男は見下ろして苦く笑った。「俺はお前を殺せない。だが、眠らせてやることはできる。御伽噺の時代は終わったんだ、お前が苦しみ続ける必要は」
「おね、が、い」
 リュカは必死に叫んだ。実際の声は囁きに近くとも、雨音に紛れた弱々しい声は、男の言葉を遮った。
 リュカは二人の会話をほとんど理解できていなかった。戦士の声音に、何か、今まで聞いたことがない響きが混ざったように聞こえたことがただ恐ろしかった。きっとそれは彼だけでなくリュカの絶望だった。取り残される。血飛沫の残像は、今、目の前で泥濘に落ちる赤と重なった。
「お願い」
 だからリュカは言葉を吐いた。
「一緒にいて。一人にしないで!」
「…………ああ」
 ――銀光が閃いた。
 甲高い音を上げて、男の手から短剣が飛んだ。リュカは小さな紅が二つ、煌くのを見た。
「お前っ……!」男は慌てて長剣を掴み邀え撃った。戦士は相似の剣で鍔競り合うと見せかけて刃の軌道を変え、斜めに切り上げた。男は刀身で無理に受け流した。幾度も鉄の激突音が響き、雨を散らして舞う刃は、リュカを見とれさせた。
 それだけの攻防は一瞬に満たなかった。男は退がり様に、未だ空中にあった紅の片方を掴み取った。「正気か、おい」
 短剣は対峙する二人の間に突き立った。紅玉のもう片方はリュカの眼前に落ちた。中央で寸断された紅玉は短剣の柄に収められていたものに違いなかった。
 戦士は大きく吐息して呼吸を整えた。血は未だ流れ続けていた。リュカの父の形見の剣を手に、彼は口を開いた。「まだ、やることがある」
「だから? 何のつもりだ」
「この子はまだ死んでいない」戦士は答えた。押し殺そうとした呼吸で声は掠れていた。「だから、全部をきみにあげるのでは不公平だ。きみは消えない炎を手に入れる、俺はこの子を助けて故郷へ帰る。悪い取引じゃない」
 男は顔をしかめた。「お前が公平を言うとはどんな冗談だ? 俺は今すぐにでも坊主を殺せるぞ」
 戦士は首を横に振り切先を向けた。「本来、死は選択的な事象ではないよ。たとえ仮初めの姿と意思を持ったとしても」
「仮初めか」男は長剣を片手に苦笑した。「だが、お前はこの取引の意味を知っているんだろうな? 古来から、悪魔を相手に似たようなことをした人間の末路は悲惨と決まっているぞ。その上、お前は死という救済を拒絶するんだ」
 リュカは目の前の光景に目を奪われていた。紅玉の破片の中で光が弾け、雨に溶けて消えていく。リュカは掴もうと手を伸ばしたが、泥が指の間を流れる感触があるばかりだった。
 もしも、自分の手で御伽噺の勇者を呪縛から解き放つことができたなら。
 リュカは呼吸を押し殺して掌を上げた。指の形をわずかに残した泥以外には何もなかった。
「そんなのは、子供を泣かせるほどのことじゃない」戦士は低く笑った。喉の奥で発した笑い声は男のものと似ていたが、暗い熱を含んでいた。「きみが甘いのはわかるけど、誘いが破滅的に過ぎる」
 それが死だ、と男は応じたが、やがて嘆息した。「まあ、いい、今回はこれで見逃してやる。精々、後で後悔するがいいさ」
 彼は投げ遣りに言って踵を返した。二十歩も離れた頃に彼はふと振り返り、「そうだ」と声を上げ様に、戦士に向けて彼の長剣を投擲した。戦士はリュカの父の剣でそれを弾き落とした。
 リュカがその音に驚いて目を瞑り、また恐る恐る目蓋を開いた時には、男の姿は広場のどこにも見当たらなかった。
 戦士が半ば倒れるように、泥濘に腰を落とした。手放された剣が水音を立てた。
 リュカは彼の横顔を見上げながら、立ち上がろうと腕を立てた。眠気と疲れは去らないものの、ひどく億劫な体の重さは消えていた。代わりに寒気を思い出して身震いした。
「雨って」
 戦士が呟いた。伏せられた藍方石の眸は静謐だったが、リュカが今まで見たことがないほど穏やかにも見えた。「雨って、こんなに冷たかったんだね。ずっと忘れていた。温度は感じていたはずなのに……」
「うん」リュカは頷いた。立ち上がるとふらついたが、転びはしなかった。すっかり泥の色に染まった雨着を店の女に怒られるだろうと思いながら、リュカは戦士へ手を伸ばした。
「冷たい、よ。風邪を引いちゃうから、早く帰ろう」
 そうだねと、嘗て勇者と呼ばれた男は笑い、リュカの手を取った。