市場は雑然としていた。
 一帯に窮屈に並ぶ屋台の半数以上は無人であったが、残りの少数には、様々な商品が並んでいた。野菜や穀物、堅い麺包、蜂蜜、葡萄酒、麦酒、温かな粥、木の杯、食器、手袋、帽子、靴、糸と布地、革鞄や革小物、蹄鉄、燭台、家禽、刃物、車輪……他にも様々な食料品や日用品。似たような商品の店が固まっていることが多かったが、そうでないこともあった。そもそも一つの商店で扱われている品に統一性がないことも珍しくなかった。
 戦争のせいでものがない、という女の言葉は、多分に大袈裟に違いない、とリュカは思った。
 リュカは戦士に手を引かれ、恐る恐る周囲を眺めながら歩いた。泥濘みの泥に外套の裾を汚した人々は、リュカの目には灰色がかって見えた。
 一つの露店の前では、どこかの屋敷の召使らしき若い男が、商人と話し込んでいる。その足元を薄汚れた子供が掠めて駆けていく。放し飼いの豚が、鼻面で、泥の中の野菜くずを探っている。少し離れた辻では、若い男が、まばらな聴衆を相手に、終わりのない戦争は王と貴族の腐敗のために引き起こされたと叫んでいる。籠を抱えた女が、無関心に人だかりの外を横切って行く。擦り切れた布地の上で、傷病兵と思しき男が座り込んで施しを求めている。
「ねえ」リュカは屋台の一つに目をとめ、戦士に声をかけた。「町の中で、武器を売っているの?」
 リュカが示したのは、戦場で死体から剥いだ品を売る店だった。蛙に似た中年の店主はリュカの声を聞きつけて、半ば睨むような視線を向けた。リュカは戦士の影に隠れた。
 戦士は店主に、柄頭に紅玉の填った、見事な拵えの銀の短剣を知らないかと訊ねた。店主は知らないと答え、価値のある品かと問い返した。戦士は、自分より高く買う者はいないだろうと言った。「知人の形見だ。見つけてくれたら言い値を払う」
 店主は鼻で笑った。「ここに並んでいる刀剣は皆、誰かの形見だ。だが、過去の持ち主なんか関係ねえよ、馬鹿な敗残者の名前なんざ誰も覚えちゃいねえからな」
 二人は武具や場違いな美術品を扱う店を幾つか巡ったが、銀の短剣は見つからなかった。相手に二度、切り上げようとした戦士にリュカが強請って、市場だけでなく、それなりの店を構える質舗や仲買商まで訪ね、結局、手がかりもないまま市場へ戻った。
「まだ、おじさんが持ってるのかな」
 リュカは呟いた。
「そうかも知れない。もっと大きな町で売った方が、高い値がつくだろうから」
 戦士は答え、空を見上げた。鉛色の空からは、再び、大粒の雨が落ち始めていた。
「そろそろ買い物をして、帰ろう。食べたいものがあれば教えてね」
 リュカはまだ短剣を探し続けたいと思った。しかし戦士が首を縦に振らないことはわかっていた。一人でこの雑踏の中を駆け出せば、結果は変わるだろうか。繋いだ手を放し、靴で泥を跳ねて、疲れた顔の大人たちの間に消える。それは簡単なことのように感じられた。できるかも知れない。そう思った途端、戦士が振り向いた。リュカは驚いて身を竦めた。
「どうしたの、坊や。具合でも悪い?」
「ううん」リュカは慌てて首を横に振った。咄嗟に言い訳を探して、脳裏を過ぎったのは、出かける前の女の言葉だった。「あの、僕、お肉を食べたい」
 戦士は首を傾げた。「それ、きみが考えたの?」
「うん」
 リュカは後ろめたさを感じながら頷いた。実際、麺麭や乾物ばかりの食事に物足りなさを感じていた。怒られるだろうかと不安になったが、戦士はリュカの手を強く握った。「いい子だね、坊や」
 リュカは彼を見上げた。戦士はわずかに藍方石の眸を細め、他に食べたいものはあるかと訊いた。リュカは半ば呆然としながら答えた。「林檎、一緒に食べよう」
「わかった」戦士はリュカに雨具の頭巾をかぶらせてから、果物の屋台で林檎を買ってリュカに手渡した。リュカは赤い果実を大切に抱えた。帰って、店の女に短刀を借りて、半分に切ったものを渡したら、このひとはまた笑ってくれるだろうか。
 肉を売る店の周囲にはひどい悪臭が淀んでいるように感じられた。熟れた肉の臭いに、リュカは街道の骸を思い出して、口元を手で覆い、吐き気を堪えなければならなかった。
 戦士はリュカを風上へ導き、「ここで待っていて」と言った。リュカは戦士の手を離した。彼を待つ間に、帰ったら、果たして上手に短刀を使えるだろうかと考える。赤く色づいた林檎に、そっと銀色の刃を差し込むと、瑞々しい音と共に二つに割れる。その片方を差し出して、残りの半分を、さくりと囓る。
 その想像にリュカは少しだけ高揚した気分で、品物を指しながら店主と言葉を交わす戦士を眺めた。
 リュカの位置まで彼らの声は届かない。リュカは両手で林檎を抱えて待った。
 不意に、戦士が蹌踉めいた。彼は屋台の柱を掴んで体を支えた。粗末な屋台が鈍い音を立てて揺れ、店主が驚いて悪態をついた。
「あ……」リュカは駆け寄ろうとした。
 その真横を人影が通り過ぎた。銀の煌きにリュカは振り向いた。見覚えのある背格好は、あの煙草の男のものだった。無造作に去って行く後姿。その右手に握られた銀の短剣の紅玉が、妙に黒く目に焼きついた。
「あ……あのっ」リュカは思わず上げた声は雨音に吸い込まれた。「おじさ、ん」
 知らせなければと、混乱しながら戦士を見やる。均整のとれた長身は柱に縋って立っていた。伏せられていた藍方石の眸がリュカに向けられ、唇が微かに動いた。声は届かなかったが、リュカには彼の言葉がわかった。「きみが気にすることはない」
 雨はいよいよ強くなりつつあった。道を行く人々は、いつの間にか姿を消していた。立ち並ぶ屋台は店仕舞いを終え、棚や品に覆いがかけられている。雑踏は嘘のように消え失せて、叩きつけるような雨に、世界が閉ざされてしまったようだ。
 リュカは首を横に振った。「い、たの。今。おじさんが」
「……いい。後でいい」戦士は低くざらついた声で答えた。リュカは息を呑んだ。
 濡れ髪から滴る雫が蒼白な肌を伝う。彼がリュカに伸ばした腕はひどく震えていた。「帰ろう。あまり濡れると、風邪を引いてしまう」
「でも」リュカは後退った。早く追いかけなければと、男の消えた通りを横目にする。無人の道は、雨粒で濁った視界の先まで続いている。
「でも、短剣、見つけたのに」
 リュカは恐る恐る息を吐き出した。吐息は熱く、鼓動は早い。首の後ろの血管を、どくどくと血が流れている。
 「だって、あなたが……」
「平気だよ」戦士は答えた。「約束は、守る。きみは必ず故郷へ帰すから、心配しないで。きみが危険を冒すことはない」
 リュカは眩暈を覚えながら首を横に振った。恐ろしくてたまらなかった。
「待ってて」続けた声は、不安と覚悟で震えた。「おじさんに、返してもらうから。そうしたら、よくなる……よね」
 リュカは、近くの屋台の棚に、そっと林檎を置いた。
 戦士はリュカに近づこうと柱から手を離し、途端に躰の均衡を失って膝をついた。泥が跳ねる音が、雨音の合間に白々しく響いた。熱のないまま茫洋としていく藍方石の眸は、リュカにそのまま御伽噺を思い起こさせた。銀の短剣。空洞の勇者。魂がなくても人は生きられるとしたら、何故、魔女は紅玉を彼の手に戻したのか。どこかに隠してしまえばよかったのに。
「平気、だから。危なかったら、ちゃんと逃げる」リュカは駆け寄りたいのを我慢して首を横に振った。傍へ寄って体を支えれば、戦士はあの戦場で出会った時のように、リュカを捕まえてしまうだろうから。
「すぐ戻るから。雨、当たらないところで、待ってて。お願い」
 リュカは背を向けて駆け出した。その背後で、戦士が剣の柄に手をかけたことには気づかなかった。古の王より賜った剣の粗雑な細工を指で確かめて、彼は目を瞑った。