屋根裏部屋でじっとして過ごす時間は、旅の追想と思索を招いた。
 やがて「あなたは、どうして戦うの」とリュカが訊ねたのは、翌日の午後だった。
 雨は音もなく降り続け、刻々と町が沈黙に沈んでいくように思えた。明日までにやまなければ多くが死ぬだろうと言われたが、窓から覗く通りに人間の営みの気配はほとんど感じられず、既に他の総てが死に絶えてしまったかのような錯覚があった。時折、誰かの濡れた足音や日常的な声が聞こえて、リュカを我に返らせた。
 女は朝からことあるごとに世話を焼いては戦士に纏わりつき、関心と銀貨を求めていたが、今は階下で店を見ている。異様なまでに掃除の行き届いた屋根裏は女の偏執ぶりを感じさせたものの、リュカは、温かい煮物を貰ったことで、彼女に対する警戒を解いていた。
「何故?」戦士は剣を研く手をとめずに問い返した。
 リュカは迷い、慎重に言葉を選んだ。「だって、あなたは強いから」
「理念や志の高さと、強さや運のよさは、必ず比例するものではない」戦士は答えた。「きみは、父君は矜りに殉じたんだと言ったね。たとえ結果が無惨でも、決してその矜りを軽んじてはいけない」
「誇り、なんて」リュカはかぶりを振った。「わからない。どこにあるの」
「騎士の矜りとは、果敢に戦い、土地と民を守ることだとされている。そして、たぶん」戦士は白刃を見下ろした。藍方石の眸を細め、彼の表情は追憶を辿るように見えた。「男の矜りとは、愛する者の前で勇敢であること、だと思う」
 矜り、と彼が口にする時の発音には、どこか古い響きがあった。
「父上は勇敢だった」とリュカは呟いた。それだけは疑う余地のないことだった。
「理想と現実の落差も、守るために殺す欺瞞も、きみが父君の跡を継ぐならいずれは知るべきことだ。それらに決着をつけようと立つ人間の姿は、とても尊い」
 戦士は剣を掲げ、刃に塗り直した油の具合を眺めた。無骨な鋼は重く黙り込んでいる。彼は指先で刃を撫でた。金属の擦れるその涼やかな音を、リュカは密かに気に入っていた。
「あなたは、勇敢なの?」
「臆病だった」戦士は答えた。
「あなたは勇者様なのに」
 そうであればいいのに。
「勇者か」戦士は物憂げに呟いた。束の間、その横顔は疲れ果てているようにも見えた。「確かに、そう呼ばれる程の数は殺してきた」
 道端の腐敗した屍が脳裏を過ぎって、リュカはぞっとした。唐突で得体の知れない、恐ろしい終わり。その死を以てする返答は、やはり断絶のように聞こえた。
「だけど、失うものを持たずに戦場へ出る者を勇者とは呼ばない。勇者とは、何かを守るため或いは得るために、耐えがたい困難に臨む者のことだ」
 戦士は剣を鞘に収めて放った。それまでの丁寧さを忘れたように投げ捨てられた剣が歪んだ床板に落ちる。激しい音が静寂を割った。
 リュカは身を竦めた。怯えながらも口を開いた。「あなたは僕を助けてくれた」
「きみが泣いていたから。それも、血みどろの戦場で、あの短剣を握って。きみを救ったのはきみ自身と、運だ」戦士は答えた。
 リュカは本当にそれだけだろうかと思った。何か一つでも足りなければ、彼はリュカを見殺しにしただろうか? しかしそのことについて何かを言おうとすれば、失ってしまった紅玉の短剣に触れなければならなかった。謝る度に許しが得られるとわかっていた。その上でごめんなさいと口にすることはもうできなかった。リュカは唇を噛んだ。
「泣かないで」
 戦士はリュカの頭に手を置き、そっと撫でた。
 泣いていたつもりはなかった。リュカは首を横に振った。
「だって、あれは――あなたが持っていないと」
「いいよ。なくて困ったことはないから」
 戦士は答えた。リュカには彼の言葉が短剣を示したのか、それとも別のもののことなのかわからなかった。
 リュカは、御伽噺の勇者を自分の手で呪いから解き放つことができたらと一瞬だけ空想した。だが短剣は失われ、残ったのは、大切なものを不注意でなくした子どもと、寛容にそれを許す大人だけ。屋根裏は薄暗く陰鬱で、開け放された窓から忍び込む冷気と雨音が、リュカに現実を思い知らせた。どうしようもない無力さを。
 不意に、戦士の手がとまった。リュカは彼を見上げた。
 藍方石の眸が焦点を失い、石膏像のように整った貌から表情が消えていた。リュカがぞっとして注視する間に、戦士は我に返った様子でかぶりを振り、冷たい手を額にやった。
「ごめん、まだ疲れているみたい」
「あ、の……」リュカは頭から滑り落ちるように除けられた腕を目で追いながら口を開いた。「今、まるで」
 本当に魂がなくなってしまったかのような。
「嘘」リュカは呟いた。「嘘。顔色、悪いよ。今も……ううん、さっきだって……」
「坊や、そんな顔をしないで。少しぼうっとしただけだ」戦士は苦笑した。「きみのような境遇の子供が庇護者を理想化する気持ちはわかる。だけど、少し調子を悪くするくらいは許してくれないか」
 それから彼は窓へ視線を向け、雨が弱くなってきた、と言った。
 リュカは恐る恐る口を開いた。「あの短剣を探しに、行きたい」
 戦士は諌める口調で「わかった」と答えた。「夕食の材料の買出しを頼まれていたんだ。ついでに、盗品の仲買商を幾つか当たってみよう」
「一緒に?」リュカは、戦士を心配する意味で訊ねた。戦士は逆と受けた。
「大人しくしていられるならね。下に子供用の雨着があるはずだから借りておいで」準備をするから先に降りていて、と言われてリュカは躊躇いながら頷いた。戦士は「平気だよ」と言った。さあ、早く。追いついてもまだ雨着を着ていなかったら置いて行くよ。
「嫌! 急ぐから、ゆっくり支度して」リュカは慌てて階段へ向かった。軋む音と共に駆け下りる間際に振り向き見たのは、憔悴したように俯いた戦士の姿だった。リュカは息を呑み、しかし引き返さずに階段を降りきった。
 卓子で何かの歌を口遊んでいた女がリュカを見つけ、用を問うた。リュカが答えると彼女は一瞬ひどく嫌な顔をしたが、すぐに粗末な雨着を取り出してきてリュカに着せた。リュカが古い布のにおいと埃に咽せると、彼女は細い腕で雨着を叩いて埃を払った。
 客の一人が文句を言いかけ、唖然とした。「まだ取ってあったのかい」
 女は捨てられるものかと甲高く笑った。
「あんたの兄さんは遠慮がないね。あの子のことは知ってるだろうに」そして一転してつまらなそうに言った。「虫喰いだらけだが、我慢しな」
「ありがとう……あのひと、前、いつここに来たの?」
「ああ、あたしがまだ青臭い娘っ子だった頃だよ。小さな戦争があってね、この店が兵隊さんの宿舎になったことがあるのさ。あの兄さんは十人くらいの柄の悪い連中の隊長さんだった。あの時は立派な大人に見えたが、年頃の娘の目なんて当てにならないものだねえ。ああ、そうだ、市場へ行くんだろう? たまには肉を食べたいって兄さんに言っておくれ。ただでさえ高くなってたのが、戦争のせいで値段が跳ね上がってるんだよ」
「え、あ……うん」リュカはやはり早口に圧倒され、思わず頷いた。言質を取った女はにんまりと笑った。「絶対にね。じゃないと夕食は作ってやらないよ」
 戦士が階段を降りて現れた。旅装の外套の下に二振りの剣を佩き、その様子は普段と変わらないようだった。彼は二人を見比べて首を傾げた。「何かあった?」
 女は笑ったまま答えず、リュカも後ろめたい笑顔を返した。「準備、できたよ」
「さ、行っておいで」リュカは女に背を押された。厚い布越しに骨ばった掌の感触が伝わり、鳥肌が立った。