坊や、と肩を揺さぶられてリュカは目を覚ました。
卓子の上には、空の杯と、煙草の吸殻が散らばっていた。「遅くなってごめんね」という言葉に、頷く。「おかえりなさい」
目の前に見慣れぬ包みが置かれており、麺麭のにおいが鼻先を掠めた。
「誰か、いた?」と戦士が聞いた。リュカは煙草の男のことを話したが、戦士は彼を知らないと答えた。「何度かおなじ戦場にいたのかも知れない。けれど、わからない。消えない傷を負うことも、身体の一部、たとえば指や目や四肢を失うことも、珍しくはないから」
リュカは戦士の腕に視線を向けたが、すぐに俯いた。「あのひと、勇者の話をするの。これが、魔女の」言いかけ、リュカは蒼褪めた。
短剣が手の中から消えていた。焦躁のままに周囲を見渡す。見つからない。卓子の下に落ちている細長い影に慌てて手を伸ばしたが、それは黒い鳥の羽だった。
「どうしたの」と声が降った。リュカは「短剣」と呟いた。声は震えていた。「嘘」
「なくしたの?」
リュカは弾かれたように振り向いた。
「おじさんが」
いつの間に寝入ってしまったのか、わからない。男と何かを話していたはずだ。薬指の欠けた手が短剣を示し、リュカはそれを見せた。魔女の短剣だ、と錆びを含んだ声が言ったことを覚えている。勇者の破滅の物語。嘘であるはずの。ずっと気を張って、短剣を握りしめていたはずだ。
「盗まれたのかな」戦士が周囲を見渡して背を向けた。途端にリュカはひどい恐怖を覚え、椅子を鳴らして立ち上がり、彼の腕に縋りついた。「待って、置いて行かないで!」
「どうしたの、坊や」戦士はリュカを見下ろした。
「ごめんなさい。探してくるから。見つけるから。だから、お願い」
リュカは必死に言いながら、戦士の端正な貌に然るべき驚愕や戸惑いがないことを見たと思った。平静なのか……それとも、本当に感情がないのか。と、それはぞっとする考えだった。
「置いてなんて行かないよ。一応、外を見ておこうと思っただけだ」戦士はリュカの前に膝をつき、あの短剣は子供を泣かせるほどには重要なものではない、と言った。古い知人から譲り受けたので持ち歩いていたが、鞘から抜いて実用の役に立てたことは一度もなく、失くしたからといって困りはしないのだと。
「一人で残してごめんね。こわい目に遭ったね」
リュカはごめんなさいと繰り返した。
涙に震える言葉を、戦士は頷きながら聞き、ようやくリュカが落ち着いた頃に、その頭に手を置いた。
リュカは口を開いた。「あれは、どんなひとから貰ったものだったの。本当に、魔女が……あなたを……」
ねえ、とリュカは戦士を呼んだ。無声音で囁かれたのは、リュカの名であり、勇者の名だった。
戦士は藍方石の眸を伏せ、再びリュカの頭を撫でた。
「ほんとうに」
重ねた問いにも戦士は答えなかった。リュカは、その沈黙を肯定だと思った。
リュカの目に彼は強すぎるように映ったし、古い歴史や物語をよく知っていすぎるようにも思えた。何より、リュカは血染めの景色から自分を救い上げた手が特別であることを願っていた。父の死から始まった旅路を耐えるためには、縋るべき必然がなければならなかった。
「あの短剣は」リュカは呟いた。「あの紅玉は――」
「きみが街へ出ても迷子になるだけだ」
リュカは「でも」と言いかけたが、戦士は黙殺して立ち上がった。彼の視線を追えば、店の奥で女が目覚めたところだった。
女は戦士から追加の貨幣を受け取ると、あけすけな表情で戦士の腕に自分の腕を絡めようとした。戦士はリュカを横目にして身を引いた。
女は喉を引き攣らせて笑った。
「前にあんたが来た時は、あたしはこのあたりで一番の美女だった。ねぇ、綺麗な兄さん、あんたもそうだって言ってくれたじゃない。それがこんなに痩せこけて、憫れだと思わないの? あんたみたいな兵隊さんは食事に困らないんだろう、この町の食べ物は軍隊がみんな持って行ったんだから」
「残念ながら今は軍属ではないから、糧食の分前はない」
戦士は女に手燭を要求し、リュカを伴って階段を上がった。蝋燭の灯に照らされた急な階段は一段ごとに悲鳴を上げ、リュカを恐がらせた。屋根裏は天井が低いために、仕切りがないにも関わらず、階下よりも狭く見えた。
小さな鎧戸を開け放って見下ろせたのは、拉げた箱を積み上げたような建物の並ぶ、狭い通りだった。
「崩れたり、しない?」
リュカは訊ねた。
戦士は「まだ崩れない」と答えた。
通りの両側から迫り出した屋根の端から、道の中央の排水溝へ雫が落ちている。いつの間にか、雨は本降りに変わっていた。屋根に遮られ空は見えないが、壁や砂利を染める光は微かな紅を帯びている。
「きみは知らないだろうけれど」戦士は窓際に手燭を置いた。「冬の雨は冷たい。容赦なく体温を奪い、人を殺す。三日も続けば露天で夜を越す難民の何割かが死に、次に彼らの屍が疫病を流行らせる」
冬の始まりに降る雨は長い。毎年、屋敷から出られず鬱屈する季節だった。だから、雨の冷たさは知っているつもりだった。しかし、そのように残酷なものだとは考えたことがなかった。
リュカは戦士を見上げた。茫洋とした死の概念に、思い起こしたのは父の死ではなく、痩せた手首を浸して広がる血の色だった。
「だから、一人で外に出てはいけないよ。壁の外側で人が死ぬと町の治安も悪くなるし、疲れているきみが雨に打たれたら倒れるかも知れない。天気がよくなるまではゆっくりお休み」
「あなたも、疲れた?」とリュカは訊ねた。戦士は「平気」と答えたが、表情を曇らせたままのリュカを暫く見下ろしてから、何かを諦めたように吐息した。「眠りが足りないみたいだ。一緒に篭ろう」
「ごめんなさい、眠れなかったの」
「気にしないで。少し目眩いがするだけ」戦士は剣帯を外して剣を横たえ、自身も壁を背に腰を下ろした。粗雑な細工の剣、繊細な細工の剣。リュカはその二振りをじっと見つめた。
視線に気づいた戦士が言った。「きみがいつか強くなってこの剣を握るなら」
「うん」リュカは想像できないまま頷いた。
「何よりも重要なのは、躊躇わないことだと覚えておくといい」
「……うん」
瞼の裏に灼きついた凄惨な死の地平。しかし、逆光に見上げた出陣式の清冽さに、確かに目を奪われた。己の未来を重ねて考えようとしたが、うまくいかなかった。
いずれは父のように剣を掲げ、軍勢の先頭に立つ日が来るのだろうか。
戦士が麺麭を切り分ける間に、リュカは銅貨を手に階下へ降りた。女に熱湯を沸かしてもらい、湯気を立てる木杯を二つ持ち帰った。
リュカは食事の途中で舌を火傷した。
「水では駄目なの」
「駄目。都市の水は煮沸しないといけない。冷たいものが欲しいなら、これをあげる」戦士は鞄から梨を取り出してリュカに渡した。
リュカは両手で包むように受け取り、見下ろした。「……あの、これ」
戦士は、梨は嫌いかと訊ねた。リュカは首を横に振った。「切って、ください。半分ずつがいい」
戦士は梨とリュカを見比べて目を細めた。
「ありがとう」
そっと梨を取り上げ丁寧に切り分ける手元を見ながら、リュカは、煙草の男の物語は嘘だと思った。
初めて向けられた一瞬の微笑みが、あまりにも優しかったので。
《鋼の帝国》年代記
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救い手の系譜