03

　その翌日は決戦だった。リュカは戦場を一望できる丘の上から一部始終を見ていた。
　既に赤黒く汚れていた平原をまた血に染める激戦いの末、古い王が敗れ、無様な逃走に転じた。新しい王の精鋭の騎士たちがそれを追った。あの鋼色の奔流からは、何者も逃れられないと思った。父は古い王のために戦って死んだ。古い王もまた死ぬだろう。
　午後、まだ日が落ちぬ内に戦は終わった。傭兵隊は早くも解散の気配だったが、帰還する者は少なかった。新しい王の陣営も、決して被害は小さくなかったのだ。煙草の男は降りることを許されずに出かけ、戻らなかった。彼を戦場へ連れて行った彼の隊長と仲間も戻らなかった。
　戦士は部下や仲間を誰一人として連れず、返り血に塗れて単身で帰還した。
　リュカはその姿を見て初めて、この一帯を覆う静寂の正体に気づいた。ああ、これは死の気配だ、と。この天幕の中にも、あの日から濃厚に漂っていた。リュカは、他の誰かがここへ帰って来るのを一度も見なかった。荷物は放り出されたままなのに、最早、その持ち主たちは生きてはいないのだ。
「おかえりなさい」リュカは小さく言った。
「うん」と戦士は頷いた。
　血のにおいが空気をおかす。
　リュカは短剣を握って俯き、息を詰めた。
　その間に戦士は甲冑を外して着替え、剣や鎧から血を拭った。それらの作業は素早く、リュカが再び顔を上げた時には、鋼の汚れはすっかり失せているのだった。
「明日にはここを引き払う」
　戦士の言葉に、リュカは彼を注視した。
「次の仕事を探しに行く。軍は一度解散になるけど、王が代われば内乱があるから」
　次は保守派の諸侯に雇われて新しい王と戦おうか、と彼は言い、冷たい指先で刃をなぞった。金属の擦れる音が小さく聞こえた。
　リュカは彼の剣をじっと見つめた。
　古い拵えの剣だった。柄の彫物に見覚えがある。今は汚れた毛布に包まれてリュカの傍らに横たわっている父の剣と、よく似ていた。代々受け継がれてきた当主の剣。刃は時代ごとに変えられて、しかしそれ以外は昔のままの、かの英雄に由来する一振りに。
「その剣」リュカは恐る恐る口を開いた。「それ、どうしたの」
「これも欲しいの？」戦士は物憂げに答えた。「短剣を返してくれるなら、あげるよ。新品のように綺麗に研いでから」
　リュカは首を横に振って、違うと答えた。戦士は剣をくるりと廻し、柄をリュカに向けて差し出した。近くで見ると違う剣だとわかった。戦士の剣の細工は、父の剣のそれよりもずっと粗い。意匠そのものはおなじに違いなかったが。
「でも、きみにはこの剣はまだ大きいね。使うならそっちの方がいい」
　戦士は剣を手元に寄せる。そっち、というのが例の短剣であることにリュカはすぐに気づいた。だが、今まで何も考えず手放さずにいた刃物が欲しいのかどうかはよくわからなかった。鞘の中に眠る白い刃、紅玉を嵌めた銀の柄。リュカが知る限り最も美しい剣だ。父の死と引き換えに手に入れたもの。
「これは大切なもの？」リュカは訊ねた。手放してしまいたいのかも知れない。父は死んだ。最後に渡された短剣を形見と見るべきか、仇と見るべきか。父の喉に槍を突き立てた兵士のことは、ほとんど覚えていなかった。鎧の群れの区別はつかず、視界を遮った鮮血はあまりにも赤かった。
「だとしても、きみから無理に奪うことはできない。その短剣は盗人を殺すから」
　リュカは顔を上げた。「元々はあなたのものなのに」
「さすがに、呪いを試すつもりにはならないよ」戦士はため息をついた。
　リュカは戦士が放り出した布を見た。彼のものではない血に染まり、赤い。その手にある剣もさっきまで血に塗れていた。すぐには落としきれない脂が残り、刃の表面で光を歪ませている。
　血のにおいがする。もしかしたら、噎せ返る程。
「恐いの？」リュカは囁くように訊ねた。
「恐いよ」戦士は剣を鞘に収めた。きん、と鍔と口金が当たる音がした。
「恐いなら、あなたは勇者様ではないんだね」
「勇者か」戦士は思案する表情を見せた。端正な横顔は石膏の像のようだった。彼は剣の柄の装飾を指先で撫でていたが、やがて剣を鞘ごと天幕の隅へ投げ捨てた。
　がしゃん。断絶のように鋼が鳴った。
「傭兵をそういう風に呼ぶ流儀はあまり知らないな。一人で百人も殺せば、勇者とも呼ばれるかもわからないけど」
「ごめんなさい」リュカは囁いた。戦士は「誰から何を聞いたのかは追求しないけど」と前置きをして言った。「迷信好きはどこにでもいる。そういう連中は自分だけではなく他人にまで変な逸話をつけたがるものだ。だから、このあたりの天幕には古今東西の英雄が揃っていた」
　戦士は言い終えると「汗を洗い流してくる」と立ち上がり、転がっていた木杯を拾い上げて出て行った。リュカはその間に何か考えのようなものを纏めようとしたがなかなか頭が働かず、何かを思いつくより早く戦士が戻ってきた。
　彼は濡れ髪から滴を落とし、手には水の入った木杯と、大きな林檎を持っていた。
「近くの給水所がもう閉まっていて。撤収係に銀貨を握らせたら、これもくれたよ。ほら、切り分けるから短剣を」
　出された手にリュカは応じなかった。戦士は林檎と木杯をリュカに押し付けた。
「水は飲んできた。林檎はあげる。代わりにきみの麺包を半分ちょうだい」
　リュカは思わず頷いてしまってから、大きく赤い林檎一つと、戦場で手に入れられる小さく硬い麺麭の半分とでは釣り合わないということに気づいた。だが戦士は既に鞄から麺麭を取り出して割っていたから、リュカは訂正の機会を見つけられず、恐る恐る林檎に口をつけた。
　林檎は甘く、果汁は冷たい。リュカは無言のまま、綺麗に平らげた。泥のにおいがするぬるい水を飲んでいると、食事を終えた戦士が再び、明日は早朝に出発する、と言った。
「僕は……」リュカは小声で訊ねかけたが、声は途中で掠れて消えた。
　戦士はリュカの傍らの毛布に視線を向け、まずは教会へ行く約束を果たそうと答えた。
　リュカは頷きかけたが、首を横に振った。「あの、これは」戦士は何も言わずにリュカを眺めた。
「これは、家に戻さなきゃ。一門のゆえんたる剣、だから」リュカは父が言っていた言葉をそのままなぞった。
「一門の所以、か」戦士は呟き、わかったと頷いた。
　それきり会話は途切れた。

　旅は順調ではあったが、決して平穏ではなかった。
　無数の車輪と足に踏みつけられた道は、巨人によって乱暴に掘り返されたような有様だった。場所によっては雨や霜で泥濘と化しては乾くことを繰り返すうちに奇怪に固まっている。半日に一度は路傍に痩せ細った獣や人間の屍を見たが、獣からは肉が、人間からは荷物や衣服、時には肉がなくなっていた。どちらからもひどい異臭がし、リュカは何度も道端で嘔吐した。
　腐敗して破れた皮膚や、熟れたように黒く光る筋肉の合間を蛆が這い回る光景を悪夢に見て魘され、真夜中に目を覚ますこともあった。
　毛布の中で短剣を握り締め、闇に目を凝らして庇護者の姿を探す夜は恐怖だった。戦士は常に少し離れた場所で起きていて、時には、気を紛らわすために、ごく少しだけ言葉を交わした。リュカの故郷について、植物や獣について、或いは外国や古代のささやかな神秘について。
　戦士は必ず最後に「もうお休み、明日も歩くよ」と言った。その言葉を聞くと、リュカは安心するというよりも疲れを思い出してじきに眠ってしまい、次に気がつくのはすっかり日が昇ってからだった。そういった夜を幾度も越え、リュカは徒歩の旅に随分と慣れた。荒れた道を慎重に乗り越え、骸から顔を背けながら、子供の足の速度で旅は進んだ。
　度々、追剥と化した傭兵や難民に襲われたが、そういった危険の総ては戦士が無造作に斬り捨てた。
　リュカは俯いて目を瞑っているだけでよかった。「終わったよ」と言われて顔を上げれば、刃の汚れを払う戦士の傍らには、断末魔さえ許されずに息絶えた屍が倒れ伏しているのだった。一合たりとも、刃の打ち合う音は聞かなかった。
　そうした骸の殆どは粗末な武装の男たちだったが、そうでないこともあった。
　森道の影から飛び出した中年の女と子供を殺した後、戦士は「ごめんね」と言って、青ざめたリュカの頭を撫でた。リュカは、ひどく痩せこけた母親の死体の手に握られたままの小刀を見下ろしながら頷いた。「ごめんなさい」
　殺さないで、とは言えなかった。言えば楽になるだろうという予感は、理由のわからない後ろめたさでリュカの喉を塞いだ。戦士は一人であっても殺しただろうが、リュカが共にいる間は、リュカを守るために失われた命であると思えてならなかった。
　地面が黒く汚れていく。湯気が立ち上がり、すぐに消えた。
「怖く、ない。平気。ごめんなさい」震える声でリュカは答えた。
　戦士は首肯し、剣を収めて踵を返した。リュカは道の傍らを回って彼の後を追いながら、本当に魂は剣に宿るのだろうかと思った。戦う者の気高い魂。そんなものは本当にあるのだろうか。
　リュカは幼い頃から、大人しく気の弱い性質だった。戦へ連れ出されたのも、一人息子の臆病さを憂いた父の配慮だった。リュカは確かに戦を見たが、その結果は父の思惑とは逆だった。血肉を撒き散らして人間を屍に変える蹂躙の応酬のどこにも、父が語った武勇や名声というような輝かしいものは見当たらない。臆病者の目には映らないようにできているのだろうか。
「あの」とリュカは口を開いた。
　先を歩いていた戦士は立ち止まり、振り向いた。考え事の間に二人の距離は幾らか開いてしまっていた。
「おいで、坊や」と彼は言う。リュカは慎重に近づいた。戦士はその間、リュカと、その背後の道を眺めていた。彼が斬り捨てた人々はもう遠くに置き去りにされ、とっくに見えなくなっているはずだった。
「あの、」リュカは無理やり言葉を継いだ。「魂は、あるの？」
　戦士は剣帯にかけた己の剣の柄頭に掌を置き、指先で彫刻をなぞった。彼は二振りを佩いていた。彼自身の剣と、リュカの父の剣。遠目には、まるで揃いで造られたもののように見えた。
「ある」
　戦士は答えた。
「それは……見えるの？」リュカは訊ねた。
「不可視のものが常に見えないとは限らない」
　戦士は答えた。
「普段は体の奥にあって見えないけれど、とても眩しくて、目に灼きついて離れなくなるような、そういうものだ。」戦士は藍方石の眸を細めた。「きみにもある。今まで出会った誰にでも。きみの父君や、他の死者にもあった」
　リュカは振り向いた。冬の低い太陽は既に傾き、森道は薄闇に包まれようとしている。
「死んだひとは、どうなるの」
「地に還るか、獣の腹に収まる。でも、弔うことは無意味ではないよ。女神の慈悲は、死者だけでなく、遺された人間の心も癒やす。あるいはそうしたことで、魂は受け継がれる」
　彼は柄から手を離した。
「そろそろ、歩けるね」
　その夜は、街道から外れた廃村に屋根を得た。半ばは破壊されていたが、人間の死体は見当たらなかった。戦争以前に放棄されたか、或いは軍による略奪を恐れた住民たちが先に逃れたか。比較的損傷の少ない家屋の幾つかには、大型の家具が残されてさえいた。リュカは藁敷きの寝台で眠ることになった。古い板は腰掛けただけで軋んだ。
　平炉は使える状態ではなかったが、冷気が立ち上る地面から離れ、毛布に包まって眠るなら、今夜は凍えることはないだろう。
　灯は炎ではなく、雪花石膏だった。井戸から組み上げた水を椀に張り、砕いた白い欠片を注ぐと、夜空の月もかくやの輝きを帯びた。
「綺麗」
　リュカは椀を覗き込んだ。水面は艶やかに揺れ、沈む石から小さな泡が浮かび、弾けるたびに、幽かに清んだ音が聞こえる。
　リュカは、南の小さな王国で採れる石がごく稀に持つこの性質を知らなかった。
「真夜中には溶けてしまうから、それまでにお休み」と戦士が言った。
「あなたはどこで寝るの」とリュカは訊ねた。壊れずに残っていた寝台は一つだけだった。
　戦士は、どこでも構わないと答えた。リュカは後ろめたさを感じたが、場所を変わろうとは言い出せなかった。火も焚かず、冷たい床で眠れば、翌日には立ち上がることすらできなくなるに違いない。旅を滞らせることこそが、戦士の負担になると思った。又、リュカは戦士が眠っている姿を見たことがなかったし、想像もできなかった。
　戦士はリュカを眺め、小さく吐息した。
「眠れないのなら、何か話をしてあげようか。剣を手入れする間に」
　リュカは昼間の続きを聞きたいと言った。戦士は特に続けて言うことはないと断り、魂に纏わる幾つかの逸話を語ろうと提案した。リュカは頷いた。
「本当の、お話を聞かせて」とリュカは言った。
　戦士は肯い、銀の刃を手に物語を始めた。
　リュカは最後まで聞くつもりだったが、二つ目の物語の途中で寝入ってしまった。夢うつつに聞いたのは、永遠に若さを保つため己の魂を真珠の髪飾りに封じた王妃を巡る悲劇だった。王妃は代価に感情を失くし、過酷な運命に翻弄された。魂のない王妃は苦難を乗り越えることができず、魔法の真珠は人々の手を渡り、やがて、羊飼いの男によって砕かれた。
　その欠片は、水中の雪花石膏のように煌いたのだろうかと、リュカは夢の中で思った。