その翌日は決戦だった。リュカは戦場を一望できる丘の上から一部始終を見ていた。
既に赤黒く汚れていた平原をまた血に染める激戦いの末、古い王が敗れ、無様な逃走に転じた。新しい王の精鋭の騎士たちがそれを追った。あの鋼色の奔流からは、何者も逃れられないと思った。父は古い王のために戦って死んだ。古い王もまた死ぬだろう。
午後、まだ日が落ちぬ内に戦は終わった。傭兵隊は早くも解散の気配だったが、帰還する者は少なかった。新しい王の陣営も、決して被害は小さくなかったのだ。煙草の男は降りることを許されずに出かけ、戻らなかった。彼を戦場へ連れて行った彼の隊長と仲間も戻らなかった。
戦士は部下や仲間を誰一人として連れず、返り血に塗れて単身で帰還した。
リュカはその姿を見て初めて、この一帯を覆う静寂の正体に気づいた。ああ、これは死の気配だ、と。この天幕の中にも、あの日から濃厚に漂っていた。リュカは、他の誰かがここへ帰って来るのを一度も見なかった。荷物は放り出されたままなのに、最早、その持ち主たちは生きてはいないのだ。
「おかえりなさい」リュカは小さく言った。
「うん」と戦士は頷いた。
血のにおいが空気をおかす。
リュカは短剣を握って俯き、息を詰めた。
その間に戦士は甲冑を外して着替え、剣や鎧から血を拭った。それらの作業は素早く、リュカが再び顔を上げた時には、鋼の汚れはすっかり失せているのだった。
「明日にはここを引き払う」
戦士の言葉に、リュカは彼を注視した。
「次の仕事を探しに行く。軍は一度解散になるけど、王が代われば内乱があるから」
次は保守派の諸侯に雇われて新しい王と戦おうか、と彼は言い、冷たい指先で刃をなぞった。金属の擦れる音が小さく聞こえた。
リュカは彼の剣をじっと見つめた。
古い拵えの剣だった。柄の彫物に見覚えがある。今は汚れた毛布に包まれてリュカの傍らに横たわっている父の剣と、よく似ていた。代々受け継がれてきた当主の剣。刃は時代ごとに変えられて、しかしそれ以外は昔のままの、かの英雄に由来する一振りに。
「その剣」リュカは恐る恐る口を開いた。「それ、どうしたの」
「これも欲しいの?」戦士は物憂げに答えた。「短剣を返してくれるなら、あげるよ。新品のように綺麗に研いでから」
リュカは首を横に振って、違うと答えた。戦士は剣をくるりと廻し、柄をリュカに向けて差し出した。近くで見ると違う剣だとわかった。戦士の剣の細工は、父の剣のそれよりもずっと粗い。意匠そのものはおなじに違いなかったが。
「でも、きみにはこの剣はまだ大きいね。使うならそっちの方がいい」
戦士は剣を手元に寄せる。そっち、というのが例の短剣であることにリュカはすぐに気づいた。だが、今まで何も考えず手放さずにいた刃物が欲しいのかどうかはよくわからなかった。鞘の中に眠る白い刃、紅玉を嵌めた銀の柄。リュカが知る限り最も美しい剣だ。父の死と引き換えに手に入れたもの。
「これは大切なもの?」リュカは訊ねた。手放してしまいたいのかも知れない。父は死んだ。最後に渡された短剣を形見と見るべきか、仇と見るべきか。父の喉に槍を突き立てた兵士のことは、ほとんど覚えていなかった。鎧の群れの区別はつかず、視界を遮った鮮血はあまりにも赤かった。
「だとしても、きみから無理に奪うことはできない。その短剣は盗人を殺すから」
リュカは顔を上げた。「元々はあなたのものなのに」
「さすがに、呪いを試すつもりにはならないよ」戦士はため息をついた。
リュカは戦士が放り出した布を見た。彼のものではない血に染まり、赤い。その手にある剣もさっきまで血に塗れていた。すぐには落としきれない脂が残り、刃の表面で光を歪ませている。
血のにおいがする。もしかしたら、噎せ返る程。
「恐いの?」リュカは囁くように訊ねた。
「恐いよ」戦士は剣を鞘に収めた。きん、と鍔と口金が当たる音がした。
「恐いなら、あなたは勇者様ではないんだね」
「勇者か」戦士は思案する表情を見せた。端正な横顔は石膏の像のようだった。彼は剣の柄の装飾を指先で撫でていたが、やがて剣を鞘ごと天幕の隅へ投げ捨てた。
がしゃん。断絶のように鋼が鳴った。
「傭兵をそういう風に呼ぶ流儀はあまり知らないな。一人で百人も殺せば、勇者とも呼ばれるかもわからないけど」
「ごめんなさい」リュカは囁いた。戦士は「誰から何を聞いたのかは追求しないけど」と前置きをして言った。「迷信好きはどこにでもいる。そういう連中は自分だけではなく他人にまで変な逸話をつけたがるものだ。だから、このあたりの天幕には古今東西の英雄が揃っていた」
戦士は言い終えると「汗を洗い流してくる」と立ち上がり、転がっていた木杯を拾い上げて出て行った。リュカはその間に何か考えのようなものを纏めようとしたがなかなか頭が働かず、何かを思いつくより早く戦士が戻ってきた。
彼は濡れ髪から滴を落とし、手には水の入った木杯と、大きな林檎を持っていた。
「近くの給水所がもう閉まっていて。撤収係に銀貨を握らせたら、これもくれたよ。ほら、切り分けるから短剣を」
出された手にリュカは応じなかった。戦士は林檎と木杯をリュカに押し付けた。
「水は飲んできた。林檎はあげる。代わりにきみの麺包を半分ちょうだい」
リュカは思わず頷いてしまってから、大きく赤い林檎一つと、戦場で手に入れられる小さく硬い麺麭の半分とでは釣り合わないということに気づいた。だが戦士は既に鞄から麺麭を取り出して割っていたから、リュカは訂正の機会を見つけられず、恐る恐る林檎に口をつけた。
林檎は甘く、果汁は冷たい。リュカは無言のまま、綺麗に平らげた。泥のにおいがするぬるい水を飲んでいると、食事を終えた戦士が再び、明日は早朝に出発する、と言った。
「僕は……」リュカは小声で訊ねかけたが、声は途中で掠れて消えた。
戦士はリュカの傍らの毛布に視線を向け、まずは教会へ行く約束を果たそうと答えた。
リュカは頷きかけたが、首を横に振った。「あの、これは」戦士は何も言わずにリュカを眺めた。
「これは、家に戻さなきゃ。一門のゆえんたる剣、だから」リュカは父が言っていた言葉をそのままなぞった。
「一門の所以、か」戦士は呟き、わかったと頷いた。
それきり会話は途切れた。
《鋼の帝国》年代記
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救い手の系譜