五日が経っても子供は短剣を放さなかった。そして、死にもしなかった。
戦士は三日の間はいくらか不器用に宥めすかし脅しつけを繰り返したが、一向に功を上げないと見るや、子供を置き去りに頻繁に出かけるようになった。天幕の隅に取り残された子供は、四日目は独り座り込んだまま過ごし、五日目の戦士の留守中にようやく、自身の状況を確かめようという気力を取り戻した。
天幕の中は雑然としていた。複数の人間が寝泊りしていた様子そのままに毛布や鞄が投げ出され、端には、血に汚れた包帯や服の切れ端、空になった酒瓶、壊れた甲冑などが如何にも乱雑に積み上げられている。最早麻痺した嗅覚でも、空気がひどく澱んでいることは感じられた。
子供は震える足で立ち上がると、短剣はまだ胸元に抱えたまま、天幕の出口へと近づいていった。厚い布越しに光が感じられる。帳の隙間からそうっと覗けば、外は眩いばかりの昼で、秋の終わりの太陽が、蒼い空の頂辺に輝いていた。
無数の靴に固められて土が剥き出しになった地面の上に、泥や土埃に塗れた天幕が立ち並んでいる。
向かいの天幕の前で、剣の鞘で折れた足を固定した男が座り込み、紙煙草を吹かしていた。ゆらゆらと紫煙が立ち上っている。
子供はその男をまじまじと見つめた。今までに見たことのない種類の人間だった。子供が知っているのは煌びやかな格好をした高貴な人々か、彼らを守る白銀鎧の騎士たちか、屋敷で働く素朴な人々ばかりだった。戦場に来てからは無数の鎧の群れを見たが、彼らも結局、子供がもとより知っているのとおなじ種類の人々だった。
煙草の男はそれらの誰とも違っていた。布詰めの鎧下を着ていたが、それには刺繍の一つもみられず、ひどく薄汚れて血に汚れ、端がほつれて中の綿や布切れが覗いている。濃い髭に覆われた顔は歳月に荒らされ厳めしく、額から左の頬にかけて、生々しい傷跡が刻まれていた。
見ているのが恐ろしいような気がして、子供がそっと天幕の布を手放そうとした時だった。
「よう」煙草の男が子供の方を見て、にやりと笑った。
子供は悲鳴を上げた。慌てて口を押えたが、既に手遅れだった。
「おい、そこまで怯えるか」煙草の男は呆れたように言った。「俺がおっかないのは見た目だけだ。お前が今まで一緒にいた、綺麗な顔の化物よりは、ずっと優しいはずなんだがな」
「……ご、ごめんなさい」子供は帳の隙間を少しだけ広げて謝った。
「いい子だ」煙草の男は満足そうに頷いた。その笑顔には妙な愛敬があった。「坊主、名前は?」
子供は躊躇いながら名を告げた。煙草の男は子供を眺めて紫煙を吐き、強く育つ名だと褒めてから、言った。「だがここでは別の名を名乗っておけ、あの勇者は傭兵にはあまり好かれていない。化物退治の勇者、数多の栄誉を勝ち得た英傑。だがその末路は悲惨なものだ。飼い犬の名でも、兄弟の名でも、ここにいる間は名前を変えた方がいい」
その声には鬼気迫る何かがあった。子供は気圧されて頷いた。煙草の男はまた相好を崩した。「いい子だ。坊主、いくつだ?」
「もうすぐ、八歳」子供は答えてから暫く考え、リュカと名乗った。それは幼い頃に一緒に育った平民の子の名前だった。父と共に故郷を離れる時、見えなくなるまで手を振ってくれていた。
煙草の男は「いい名だ」と言った。リュカは、彼は何を言っても褒めるのではないかと思った。屋敷にもそういう老人がいたのだ。また会えるだろうかとぼんやり思った途端、五日前の記憶が蘇った。差し出された短剣。槍を受け、血を噴き出し、目を見開いて倒れる父――この五日、何度も繰り返し幻視し続けている。胸の奥が痛む。眼の奥がぐるぐるする。
リュカは帳の隙間を少しだけ広げた。「あのひとは」
煙草の男は顔をしかめ、リュカから視線を外して天幕を見上げた。「お前の隊長殿なら本陣だ」リュカは目を丸くした。あの前日、父に連れられて訪れた本陣には、騎士と貴族、彼らの召使いばかりが集まっていた。「あのひと、貴族なの」
「さあな。将軍閣下が今日呼び集めたのは、まだ生き残っている傭兵の一個隊ごとの代表者――まあ、傭兵隊長ってやつだ。貴族出のやつは多いが、そうでないやつもいる。五日前の戦いで随分と死んだから、部隊の再編成が必要なんだと」男は煙草を地面に落とし、石を拾い上げた。
リュカは彼の薬指が第二関節で切り落とされているのを見つけた。
男は視線に気づき苦笑した。「珍しいか、これはまだ幸運な方だが」
リュカは慌てて首を横に振った。
男はまた「いい子だ」と言い、目を細めた。それから彼は手にした石で煙草の火を潰す。最後の煙が空に溶けた。
「俺たちの隊は今日限りで降りるつもりだ。だが、お前の隊長殿はまだ、いや、最後まで戦うだろう」
「あのひとは、恐いひとなんですか」リュカは恐る恐る尋ねた。先ほどから、あの戦士について語る時の男の言葉が、どこか不自然に慎重だったので。だが、言ってしまってから小さく「優しいひとだと思ったけど」と付け足した。彼はリュカから短剣を取り戻そうとはしたが、約束通り、食べ物と水をくれたし、決してリュカに手を上げることはなかった。
男は周囲に目を走らせた。リュカもそっと天幕から顔を出して、彼に倣った。疎らな天幕の並びに他に人の姿はなく、静まり返っている。戦の陣にして奇妙なまでの空虚だった。
「さっきの話だが」男は低い声で切り出した。「勇者の末路を教えてやろう」
リュカはその様子を不思議に思いながら頷いた。
男は語る。坊主とおなじ名前のあの男は、戦いに憑かれたのさ。無数の化物を屠り、英雄と賞賛されるうち、あの男はその他の多くを見失った。
傷つけば善意の人々が看取り、また戦いへと背を押した。斃れれば奇跡使いが立ち上がらせ、また剣を握らせた。あの男は異形の屍骸の山を築き上げ、それとおなじだけの高さ、無邪気な貢物が積み上げられた。人々が金貨を贈り、詩人が名声を謳い、妖精が加護を授け、魔女が不死を与えた。国中の誰もがあの男に期待していた。
わかるな、坊主。無邪気な期待だ。化物を殺せ! 平和を脅かす大敵どもを駆逐しろ。十分な報酬はくれてやるのだ、さあ戦え。何故なら我々と違い、貴様には力があるのだから。
「そしてあの男は最も災なる鴉羽の異形さえ退け、実際に化物を滅ぼした。国王から貴族の位を賜り、その証として剣を授けられた。あの男はそれを受け取ると、王に尋ねた」
男は、息を吐いた。「”この剣で、次は、何を殺せばいい?”」
「末路」とリュカは呟いた。リュカが知っているこの物語は、もう終わっているはずだった。勇者はそのような質問はせず、ただ王の前に跪き、感謝の言葉を述べ、臣従を誓ったはずだった。王は彼に土地と貴族の位を下賜し、そして我ら一門が始まった、と父親の言葉が思い出された。
男は頷き、新しい煙草に火を点けた。「偉大なる国王陛下は言葉を失い、答えなかった。勇者は姿を晦まして、その名が伝説になった頃、連鎖限りない人間同士の戦場に再び現れるようになった。そういうことだ。悲惨なものだ。お前がお前の名を名乗らないのとおなじように、やつの名も決して呼んでくれるなよ」
《鋼の帝国》年代記
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救い手の系譜