夕暮れと共に戦闘は終わり、古の神の血を引く偉大な王の軍勢も、流星の如く現れ瞬く間に多くの領土を食らった新しい王の軍勢も、それぞれの陣地に引き上げた。
 平原の此岸と彼岸に並ぶ天幕の群れには赤く篝火が乱れ咲き、じきに炊事の煙が立ち上りはじめた。
 血に染められた平原を夕日が斜めに切り裂いて、鋭い影を落とす。取り残された無数の骸を蹴りつけて、肉を咥えた鴉が飛んだ。
 一帯には壊れた武具と死体が転がり、苦悶と死と腐敗のにおいに満ちていた。その悪臭を、口元に布切れを巻いて誤魔化した盗人共が、泥に汚れた指輪の一つ、財布に残された銅貨の一枚でも己の者にしようと這い回っている。
 夜が訪れれば死臭に惹かれた地底の獣が現れて、若者も老人も、男も女も平等に、首に巻いた銀の鎖ごと、落ちた指の金の環ごと、無残な食事の糧にしてしまう。だから夕暮れの残滓が沈みきるまでのわずかな時間に、人々は宝を探して骸を荒らすのだった。
 その合間を、一人の戦士が歩いていた。
 磨き抜かれた刃のように無機質な青の眸で周囲を眺め渡し、鉄靴で無造作に草や肉を踏みながら進んでいく。兜を片手に下げ、身には鎖帷子を纏い、腰には古い拵えの剣を帯びていた。
 どちらかの軍勢にいた志願兵の若者たちが、翡翠のついた腕輪を見つけたと騒いでいた。
 戦士は彼らに声をかけ、柄頭に紅玉の填った、見事な拵えの銀の短剣を知らないかと訊ねた。若者たちは勿論、知らないと答えた。戦士は、あれには悪い魔術がかかっていて、盗人が持つとたちどころに不幸が訪れて死んでしまうから、早く見つけなければならないと言った。
 若者たちは再度、知らないと答えた。戦士は歩み去った。
 野に潜んでいた無法者が、まだ息はあるが起き上がれない兵士から篭手を奪おうとしていた。その篭手は拉げ、血に塗れていたが、一つだけ、魔法のように鮮やかな緑柱石が輝いていた。
 戦士は二人に声をかけ、先ほどとおなじことを訊ねた。無法者は宝を横取りされると思ったものか、ぱっと戦士に襲いかかり、次には斬られて地面に転がった。戦士が見ると、兵士はまさに死んだところだった。
 戦士は尚も彷徨い、襤褸を纏った老婆に、半身を失い青褪めた騎士に、おなじことを訊ねた。どちらも知っているとは答えなかった。老婆は怯えて指で魔除けの印を切った。騎士は城に残した宝と引き換えに救いを求め、戦士は承知し剣を振り下ろした。
 そして血濡れの剣を手に西を見やれば、夕日の残滓は既に地平線に焼き切れていた。
 風が哭き、瘴気じみた澱みが吹き付けた。血の赤は闇に沈み、盗人たちは姿を消していた。天から夜が降りてくる。これよりは人の外、地底の獣と魔物たちの刻限が迫っている。
 陣へ向かうべく踵を返した時だった。風が屍臭と共に微かな声を戦士の元へ届けた。それは亡者の啜り泣きのようであったが、戦士がぐるりと視線を巡らせると、死者に紛れて踞る小さな影は、幼い人間の子供だった。
 戦士の目は暗闇の中でも、他の者より幾らか多くを見て取った。
 泥と血に塗れた子供の身なりが元はよいものであったであろうことも、彼の傍らに倒れた鎧の男の喉元が、柄の折れた槍で刺し貫かれていることも。そして、子供が震える手で抱えているものも。
 戦士は剣を鞘に収めるとゆっくりと歩み寄り、傍らから声をかけた。
「ねえ、」
 子供は弾かれたように顔を上げた。見開かれた目には恐怖と絶望だけがあった。
 戦士は言った。「短剣を探しているんだ。柄頭に紅玉の填った、見事な拵えの、銀のやつを」
 子供は、恐る恐る、自らの手を見下ろした。
 握られているのは、戦士の言う通りの短剣だった。銀の表面は乾いた血で赤黒く汚れ、紅玉は闇と影の下ではただ黒々として見えた。
「父上、が」子供が言った。「くれたんだ。敵から奪ったって」
 声は喉で閊え、半ば言葉になっていなかった。「父上は、これを僕に渡そうとして」
 戦士は頷いた。
「死んでしまったんだね、戦場から目を放した途端に槍で貫かれて。さあ、それを返して。悪い品だから」
 子供は俯いて答えない。短剣を掴む手は、関節が白くなるほど握り締められている。
 夜の帷は降りきり、周囲には地底の獣の気配が満ちていた。ぴちゃり、ぴちゃりと、異形の四肢が密やかに血だまりを踏んで這いずり回る。
「父上が」子供はまた言った。戦士は死者を見下ろした。身分の高い男であろうと思われた。「戦を、見せてやろうって。大丈夫だって、言ったのに」
 戦士は応えた。「これが戦だ。きみは父君が意図した以上のものを見た。短剣を返してくれないのなら一緒においで。汚れを落とし、温かい食事をあげよう。その後でなら、強張った手も開くかも知れない」
 子供は躊躇うそぶりを見せた。
 戦士はいくらかの沈黙の後で、穏やかに言った。
「父君の剣を頂戴。剣には魂が宿る、せめて教会で清めよう」
 それから無造作に兜を捨てて子供の前に膝をつき、体を抱え上げた。子供は抗おうとしたが、戦士をとめられるだけの力はなかった。戦士は片腕で子供を支え、もう片方の手で死体から剣を取り、立ち上がった。
「目を閉じているように」と、戦士は、低い、殆ど呟くような声で告げた。「もう日が暮れてしまった。恐ろしい闇の生き物達が獲物を探している。彼らに魅入られれば、地の底に掠われてしまうよ」
 子供は尋ねた。「連れていかれたら、父上と会えるの」
 戦士は首を横に振った。「彼らの住処は死者の国ではないよ」
 そしてまた血と肉を踏んで歩き始めた。戦士は新しい王の軍勢の一人だったが、王ではなく金のために働く一団に属しているため、目指す天幕は他の兵たちのそれらよりも遠くにあった。
 暗闇の中を歩く間、子供は啜り泣き続けた。その声は風に乗って死者の上を駆け抜けた。
 戦士は暫く無言でいたが、天幕までじきという距離まで来て、口を開いた。
「まだ、名前を聞いていなかったね。きみがその短剣を渡してくれるまで、一緒にいることになるだろう。もっと早く聞いておくべきだった」
 子供は小さな声で名を告げた。それは古い御伽噺の勇者の名だった。かつて国中に濫れた恐ろしい化物達と戦い、人々を救った、比する者なき英雄。
 戦士はそのいらえを聞くと、子供を抱く腕に力を篭め、「可哀想に」とだけ囁いた。
 子供は嗚咽し、戦士にしがみついた。